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哲宗の肖像

北宋(ほくそう)第7代統一王朝

哲宗(てつそう)趙(ちょう)煦(く)

在位 1085年4月1日〜1100年2月23日(14年331日)

姓趙(ちょう)諱煦(く)

哲宗の人物データ

生年
1077年1月4日
在位
  • 1085年4月1日〜1100年2月23日
在位 14年331日10歳で即位(数え年)・長さは365名中88位
没年
1100年2月23日25歳(数え年)267名中長寿順209位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 神宗北宋哲宗は神宗の子
次代
  • 徽宗北宋徽宗は哲宗の弟

出典(死因・即位経路)

死因
宋史 本紀十八(哲宗二)
即位経路
宋史 本紀十七(哲宗一)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

幼くして即位して祖母の宣仁太后(せんじんたいこう)が政治を執り、親政に入ると父の神宗(しんそう)の新法を復して旧法党(きゅうほうとう)を退けた北宋(ほくそう)の皇帝である。宋史(そうし)の賛(さん)は、宣仁太后(せんじんたいこう)がともに政治を執った元祐(げんゆう)の政を称え、のちに紹述(しょうじゅつ)の名で前の政治を覆して党籍(とうせき)の禍を招いたと評している。

即位まで

神宗(しんそう)の第六子である。1085年に神宗(しんそう)が病に伏すと、宰相の王珪(けい)が皇太子を早く立てることと皇太后の聴政を請い、皇太后が垂簾(すいれん)して皇子を皇太子に立てた。数日後に神宗(しんそう)が没すると即位し、祖母が太皇太后(たいこうたいごう)としてともに政治を執った。宋史(そうし)の邢(けい)恕(じょ)伝は、邢(けい)恕(じょ)が蔡(さい)確と謀って高氏(こうし)の一族を動かそうとして果たせず、太后は雍王(ようおう)に位を継がせたがっていると言いふらし、のちに哲宗(てつそう)を立てた功は自分にあると言い広めたと書く。宣仁太后(せんじんたいこう)の伝では、太后自身が子が父を継ぐのに何の異論があろうと述べて、これを退けている。

治世と最期

元祐(げんゆう)年間には司馬(しば)光が宰相となり、同じ年に青苗銭(せいびょうせん)がやめられて常平(じょうへい)が旧法に戻された。1093年に宣仁太后(せんじんたいこう)が没し、哲宗(てつそう)は親政を始めた。翌年に紹聖(しょうせい)と改元(かいげん)し、章惇(とん)を宰相として元豊(げんぽう)の免役法(めんえきほう)を復した。司馬(しば)光・呂公著(こうちょ)の諡(おくりな)を奪い、呂大防(たいぼう)・劉(りゅう)摯・蘇(そ)轍(てつ)らを嶺南(れいなん)などへ移し、蘇軾(しょく)を瓊州(けいしゅう)別駕(べつが)に落として昌化軍(しょうかぐん)に置いた。1096年に孟(もう)皇后(こうごう)を廃し、1099年に劉氏(りゅうし)を皇后に立てたが、これを不当とした鄒(すう)浩(こう)は官籍(かんせき)から除かれた。1100年の初めに病で朝政に出なくなり、数日後に没して、弟の端王(たんおう)が皇太后の伝えた遺命によって柩(ひつぎ)の前で即位した。宋史(そうし)の本紀(ほんぎ)は病名を書かない。続資治通鑑(しじつがん)長編(ちょうへん)は、亡くなる前に哲宗(てつそう)が、医者に胃が弱って食事が進まないと言われたと語り、翌日には丹砂(たんしゃ)を数粒飲んだと述べたことを記す。同じ書の注が引く蔡(さい)惇(とん)の直筆は、哲宗(てつそう)は若くして血を吐く病を患いながら隠し続け、医者も体の衰えを口にできないまま治らなくなったと伝える。

在位中の出来事(14件)

大赦1085年4月2日
改元1086年元号を「元祐」とする
大赦1086年
大赦1089年
大赦1092年
立后1092年
大赦1093年
改元1094年元号を「紹聖」とする
大赦1095年
大赦1097年
残り4件を表示
改元1098年元号を「元符」とする
大赦1098年
立后1099年
大赦1100年2月22日

北宋の歴代皇帝

9名の一覧

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