
北宋第7代統一王朝
哲宗趙煦
在位 1085年4月1日〜1100年2月23日(14年331日)
哲宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋史 本紀十八(哲宗二)
- 即位経路
- 宋史 本紀十七(哲宗一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
幼くして即位して祖母の宣仁太后が政治を執り、親政に入ると父の神宗の新法を復して旧法党を退けた北宋の皇帝である。宋史の賛は、宣仁太后がともに政治を執った元祐の政を称え、のちに紹述の名で前の政治を覆して党籍の禍を招いたと評している。
即位まで
神宗の第六子である。1085年に神宗が病に伏すと、宰相の王珪が皇太子を早く立てることと皇太后の聴政を請い、皇太后が垂簾して皇子を皇太子に立てた。数日後に神宗が没すると即位し、祖母が太皇太后としてともに政治を執った。宋史の邢恕伝は、邢恕が蔡確と謀って高氏の一族を動かそうとして果たせず、太后は雍王に位を継がせたがっていると言いふらし、のちに哲宗を立てた功は自分にあると言い広めたと書く。宣仁太后の伝では、太后自身が子が父を継ぐのに何の異論があろうと述べて、これを退けている。
治世と最期
元祐年間には司馬光が宰相となり、同じ年に青苗銭がやめられて常平が旧法に戻された。1093年に宣仁太后が没し、哲宗は親政を始めた。翌年に紹聖と改元し、章惇を宰相として元豊の免役法を復した。司馬光・呂公著の諡を奪い、呂大防・劉摯・蘇轍らを嶺南などへ移し、蘇軾を瓊州別駕に落として昌化軍に置いた。1096年に孟皇后を廃し、1099年に劉氏を皇后に立てたが、これを不当とした鄒浩は官籍から除かれた。1100年の初めに病で朝政に出なくなり、数日後に没して、弟の端王が皇太后の伝えた遺命によって柩の前で即位した。宋史の本紀は病名を書かない。続資治通鑑長編は、亡くなる前に哲宗が、医者に胃が弱って食事が進まないと言われたと語り、翌日には丹砂を数粒飲んだと述べたことを記す。同じ書の注が引く蔡惇の直筆は、哲宗は若くして血を吐く病を患いながら隠し続け、医者も体の衰えを口にできないまま治らなくなったと伝える。