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睿宗の肖像

北漢(ほくかん)(五代十国(ごだいじっこく))第2代分裂期の王朝

睿宗(えいそう)劉鈞(りゅうきん)

在位 954年12月〜968年8月23日(13年269日)

姓劉(りゅう)諱鈞(きん)

睿宗の人物データ

生年
926年
在位
  • 954年12月〜968年8月23日
在位 13年269日29歳で即位(数え年)・長さは365名中96位
没年
968年8月43歳(数え年)267名中長寿順115位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 世祖北漢睿宗は世祖の子
次代

出典(死因・即位経路)

死因
十国春秋 巻105(北漢二・睿宗本紀)
即位経路
十国春秋 巻104-105

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

劉鈞(りゅうきん)は北漢(ほくかん)の劉旻(りゅうびん)の子で、954年に跡を継ぎ、960年には宋(そう)に背いた李(り)筠(いん)を助けて自ら出陣した。

即位まで

新五代史(しんごだいし)は、劉鈞(りゅうきん)を劉旻(りゅうびん)の次子と記し、劉旻(りゅうびん)の死後に契丹(きったん)へ表を奉って自らを男と称したとする。資治通鑑(しじつがん)は、劉旻(りゅうびん)が子の承鈞(しょうきん)に国事を委ねて監国(かんこく)とさせ、まもなく死んだと記す。契丹(きったん)が使者を送って承鈞(しょうきん)を皇帝に冊立(さくりつ)し、名を鈞(きん)に改めさせたと記す。新五代史(しんごだいし)には、契丹(きったん)の冊立(さくりつ)も改名も書かれていない。契丹(きったん)の述律(じゅつりつ)が詔で嗣位(しい)を許したと書くだけである。劉旻(りゅうびん)の死の年は、新五代史(しんごだいし)の年譜(ねんぷ)が九国志(きゅうこくし)に拠って954年とする一方、同じ書の世家(せいか)の本文は高平(こうへい)の敗戦の翌年とし、旧五代史(きゅうごだいし)も翌年とする。

治世と最期

新五代史(しんごだいし)は、957年に元号を天会(てんかい)に改め、国内に恩赦を出したと記す。960年、新五代史(しんごだいし)は、宋(そう)に背いた李(り)筠(いん)が救援を求め、劉鈞(りゅうきん)が太平駅(たいへいえき)まで進んで李(り)筠(いん)を封じたが、李(り)筠(いん)は劉鈞(りゅうきん)の儀仗(ぎじょう)が整わないのを見て臣従を悔いたと記す。封じた爵を、新五代史(しんごだいし)は隴西郡王(ろうせいぐんおう)とし、宋史(そうし)の李(り)筠(いん)伝と十国春秋(じっこくしゅんじゅう)は西平王(せいへいおう)とする。十国春秋(じっこくしゅんじゅう)は、李(り)筠(いん)の敗北で勢力が窮した劉鈞(りゅうきん)が憂悶(ゆうもん)から病を得て死んだと記し、宋史(そうし)の世家(せいか)も、憂憤から病になって死んだとする。跡を継いだのは養子の劉継恩(りゅうけいおん)で、新五代史(しんごだいし)・宋史(そうし)・十国春秋(じっこくしゅんじゅう)はそう記し、遼史(りょうし)は子の継元(けいげん)とする。

在位中の出来事(4件)

改元957年元号を「天会」とする
大赦957年
親征960年北宋(昭義節度使・李筠の反宋挙兵を後援するための対宋出兵、団柏谷方面へ自ら親征)
立后日付不詳

北漢の歴代皇帝

4名の一覧

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