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北漢(ほくかん)(五代十国(ごだいじっこく))第3代分裂期の王朝

劉継恩(りゅうけいおん)

在位 968年8月23日〜968年10月23日(61日)

姓劉(りゅう)諱継恩(けいおん)

劉継恩の人物データ

生年
不詳
在位
  • 968年8月23日〜968年10月23日
在位 61日長さは365名中345位
没年
968年10月23日34歳(数え年)267名中長寿順170位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
継承(経緯記載なし)
先代
  • 睿宗北漢劉継恩は睿宗の養子
次代

出典(死因・即位経路)

死因
十国春秋 巻105(北漢二・少主本紀)/巻108(侯霸栄伝)
即位経路
十国春秋 巻105(北漢二・少主本紀)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

北漢(ほくかん)の劉(りゅう)承鈞(しょうきん)の養子として位を継いだが、まもなく供奉官(ぐぶかん)の侯霸栄(はえい)に殺された。

即位まで

新五代史(しんごだいし)によれば、本姓は薛(せつ)で、劉旻(りゅうびん)が娘を兵卒の薛釗(せつしょう)に嫁がせて生まれた。薛釗(せつしょう)は妻に会えないことを恨んで酔って刺し、妻は死ななかったが、薛釗(せつしょう)は自害した。劉旻(りゅうびん)は子の劉(りゅう)承鈞(しょうきん)に子が無いため、娘の二人の子を劉(りゅう)承鈞(しょうきん)の養子にさせた。宋史(そうし)の北漢世家(ほくかんせいか)は、養子にさせたのを後漢(ごかん)の高祖(こうそ)とする。劉(りゅう)承鈞(しょうきん)は劉継恩(りゅうけいおん)を太原尹(たいげんいん)としたが、郭無為(むい)に、劉継恩(りゅうけいおん)は孝行だが世を治める才は無いと語った。968年、劉(りゅう)承鈞(しょうきん)が死ぬと、劉継恩(りゅうけいおん)は契丹(きったん)に喪を告げてから即位し、続資治通鑑(しじつがん)はこのとき遼(りょう)の許しを得たとする。続資治通鑑(しじつがん)によれば、監国(かんこく)のとき、同じく養子だった弟の劉(りゅう)継忠(けいちゅう)が怨みの言葉を漏らすと、縊(くび)り殺させた。

治世と最期

宋(そう)の太祖(たいそ)は討伐を命じ、李(り)継勲(けいくん)が北漢(ほくかん)軍を破った。劉継恩(りゅうけいおん)は自分を助けなかった郭無為(むい)を恨み、追い出そうとしたが果たせなかった。同じ年、供奉官(ぐぶかん)の侯霸栄(はえい)が十余人を率いて押し入り、劉継恩(りゅうけいおん)を殺した。新五代史(しんごだいし)は酒宴のあと閣中で寝ていたところを殺したとし、宋史(そうし)の世家(せいか)は、ひとりで喪に服していたところを首を宋(そう)の太祖(たいそ)に献じようとした侯霸栄(はえい)が昼に押し入って胸を刺したとする。十国春秋(じっこくしゅんじゅう)は宋史(そうし)の筋に従うと明記する。郭無為(むい)は人を屋根から閣に入らせて侯霸栄(はえい)らを殺し、劉継元(りゅうけいげん)を迎えて立てた。新五代史(しんごだいし)は、人々はこの乱を郭無為(むい)の謀と考えたが、侯霸栄(はえい)が死んで口が封じられ、真相は分からないと記す。

在位中の出来事(1件)

被反乱968年10月23日侯霸栄の弑逆

北漢の歴代皇帝

4名の一覧

即位経路が「継承(経緯記載なし)」の17名をデータベースで見る

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