北漢(五代十国)第3代分裂期の王朝
劉継恩
在位 968年8月23日〜968年10月23日(61日)
姓劉諱継恩
劉継恩の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 十国春秋 巻105(北漢二・少主本紀)/巻108(侯霸栄伝)
- 即位経路
- 十国春秋 巻105(北漢二・少主本紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
北漢の劉承鈞の養子として位を継いだが、まもなく供奉官の侯霸栄に殺された。
即位まで
新五代史によれば、本姓は薛で、劉旻が娘を兵卒の薛釗に嫁がせて生まれた。薛釗は妻に会えないことを恨んで酔って刺し、妻は死ななかったが、薛釗は自害した。劉旻は子の劉承鈞に子が無いため、娘の二人の子を劉承鈞の養子にさせた。宋史の北漢世家は、養子にさせたのを後漢の高祖とする。劉承鈞は劉継恩を太原尹としたが、郭無為に、劉継恩は孝行だが世を治める才は無いと語った。968年、劉承鈞が死ぬと、劉継恩は契丹に喪を告げてから即位し、続資治通鑑はこのとき遼の許しを得たとする。続資治通鑑によれば、監国のとき、同じく養子だった弟の劉継忠が怨みの言葉を漏らすと、縊り殺させた。
治世と最期
宋の太祖は討伐を命じ、李継勲が北漢軍を破った。劉継恩は自分を助けなかった郭無為を恨み、追い出そうとしたが果たせなかった。同じ年、供奉官の侯霸栄が十余人を率いて押し入り、劉継恩を殺した。新五代史は酒宴のあと閣中で寝ていたところを殺したとし、宋史の世家は、ひとりで喪に服していたところを首を宋の太祖に献じようとした侯霸栄が昼に押し入って胸を刺したとする。十国春秋は宋史の筋に従うと明記する。郭無為は人を屋根から閣に入らせて侯霸栄らを殺し、劉継元を迎えて立てた。新五代史は、人々はこの乱を郭無為の謀と考えたが、侯霸栄が死んで口が封じられ、真相は分からないと記す。
在位中の出来事(1件)
被反乱968年10月23日侯霸栄の弑逆
北漢の歴代皇帝
4名の一覧- 第1代世祖951–954年病死
- 第2代睿宗954–968年病死
- 第3代劉継恩968年暗殺
- 第4代英武帝968–979年病死