
唐第22・23代統一王朝
昭宗李曄
在位 888–900年 / 901–904年(16年103日)
昭宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 巻二十上(昭宗)
- 即位経路
- 旧唐書 巻二十上(昭宗)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
宦官に擁立された唐の皇帝で、藩鎮に追い詰められ、宦官に一度は廃され、最後は朱全忠に洛陽へ移されて殺された。新唐書の賛は、聡明ではじめ復興の志もあったが、外患はすでに成り、内に賢い補佐がいなかったと評する。
即位まで
懿宗の第七子で、867年に生まれて寿王に封じられ、兄の僖宗ととりわけ親しかった。旧唐書は母を僖宗と同じ王氏として同母の弟とするが、新唐書は母を恭憲皇后王氏とし、僖宗の母は昭宗が生まれる前年に没していたと記す。888年に僖宗が危篤になると、群臣は吉王を立てようとしたが、観軍容使の楊復恭だけが寿王を推し、寿王は遺詔で皇太弟とされて柩の前で即位した。新唐書の本紀は、楊復恭が兵を率いて寿王を迎えて皇太弟に立てたとし、遺詔の語を使わない。資治通鑑は、兵を出して寿王を迎えたのを劉季述とし、名を敏と改めたのは僖宗の遺制によるとする。
治世と最期
891年に楊復恭へ致仕を命じると、楊復恭は詔を受けず、やがて長安を出奔した。893年に送った李茂貞討伐の軍は興平で自壊し、李茂貞が都に迫ると、宰相の杜讓能を貶して自尽させた。895年には李茂貞・王行瑜・韓建の三帥が兵を率いて入朝し、宰相を殺させたうえ、昭宗を廃して吉王を立てようと謀った。900年、酔って黄門や侍女を手ずから殺すと、宦官の劉季述と王仲先が昭宗を廃して幽閉し、皇太子に監国させた。901年の初め、孫徳昭らが王仲先を斬り、昭宗は復位した。904年、朱全忠の求めで洛陽への遷都が決まり、長安の住民は移され、家屋は壊されて運ばれた。東へ向かう途中、朱全忠は昭宗に従う内園の者らを殺し、昭宗の侍衛はすべて朱全忠の手の者になった。同じ年、朱全忠は朱友恭・氏叔琮・蒋玄暉に命じて、洛陽の椒殿で昭宗を殺させた。旧唐書によれば、蒋玄暉の配下の史太が剣を持って入り、単衣で柱を回って逃げる昭宗を追って殺した。新唐書の本紀は弑の字を使わず、旧五代史の梁太祖紀は下手人を記さない。
在位中の出来事(28件)
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唐の歴代皇帝
24名の一覧- 第1代高祖618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗684年 / 705–710年暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年 / 710–712年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–827年暗殺
- 第17代文宗827–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年 / 901–904年暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 李裕900–901年暗殺
- 李承宏763年不詳
- 襄王李熅886–887年処刑