
唐第5・8代統一王朝
睿宗李旦
在位 684–690年 / 710–712年(8年279日)
睿宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 巻七(睿宗、開元四年六月条)
- 即位経路
- 旧唐書 巻七(睿宗)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
武則天のもとで一度即位して皇嗣に降され、韋氏が除かれたのちに再び位に就いて、子の玄宗に譲った唐の皇帝である。
即位まで
高宗の第八子で、中宗の同母弟である。684年、武則天が中宗を廃した翌日に皇帝に立てられたが、太后がそのまま朝廷に臨み、別殿に置かれ、資治通鑑によれば政事に関われなかった。
治世と最期
686年に太后が政を返す詔を出すと、本意でないと見て固辞した。690年、武則天が国号を周と改めると、皇嗣に降された。資治通鑑は、このとき睿宗自身も武の姓を賜るよう願い出たと書くが、旧唐書の本紀はこれに触れない。武則天が朝廷に臨んでからは身を慎んで禍を免れ、資治通鑑によれば、謀反の告発を受けたときには楽工の安金藏が胸を割いて潔白を訴えた。中宗が房陵から戻ると、病と称して朝に出ず、中宗に位を譲るよう請うた。武則天は中宗を皇太子に立て、睿宗を相王に封じた。710年に中宗が没して韋后が朝廷に臨むと、臨淄王らが兵を率いて韋氏の一党を誅した。中宗の死を、旧唐書は睿宗紀では没したとだけ書くが、中宗紀では安楽公主が韋后と謀って毒を進めたとし、新唐書の本紀は韋皇后が殺したと書く。同じ年、少帝の重茂から位を譲られ、辞退したものの重ねて促されて、その日に再び即位した。臨淄王から平王となっていた玄宗を皇太子に立て、景雲と改元した。資治通鑑によれば、712年に彗星が現れると、太平公主は術者に皇太子が天子となるべきだと言わせたが、睿宗は徳を伝えて災いを避けると言って譲位を決めた。同じ年に皇太子に位を譲って太上皇帝となったが、三品以上の任免と重い刑獄は自ら決めた。713年に太平公主らの謀が発覚して玄宗が誅すると、翌日に軍国の政務をすべて玄宗に委ねた。716年に百福殿で没した。
在位中の出来事(25件)
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唐の歴代皇帝
24名の一覧- 第1代高祖618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗684年 / 705–710年暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年 / 710–712年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–827年暗殺
- 第17代文宗827–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年 / 901–904年暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 李裕900–901年暗殺
- 李承宏763年不詳
- 襄王李熅886–887年処刑