
唐第20代統一王朝
懿宗李漼
在位 859年9月13日〜873年8月15日(13年340日)
懿宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 本紀第十九上(懿宗)/資治通鑑 巻252(唐紀68・咸通十四年)
- 即位経路
- 資治通鑑 巻250(唐紀66・大中十三年)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
李漼は唐の宣宗の長子で、859年に父の死を受けて即位したが、その擁立には宦官が関わったと新唐書と資治通鑑は記す。在位中に徐州の兵が龐勛を立てて大乱を起こし、873年に仏骨を都に迎えてまもなく病で崩じた。
即位まで
李漼は母を元昭皇太后晁氏とし、833年に藩邸で生まれ、郓王に封じられた。旧唐書の本紀は、宣宗の遺詔で皇太子に立てられ、数日後に柩の前で即位したとだけ記し、宦官の名を出さない。新唐書は、宣宗が夔王を王帰長らに託したのに、神策軍の王宗実らが詔を偽って郓王を立てたとする。資治通鑑は逆に、王宗実が王帰長らを詔を偽ったと責めて屈服させ、郓王を迎えたとし、考異も郓王を立てたのは王宗実と判断している。即位の日を新唐書だけが旧唐書と資治通鑑より早く置く。
治世と最期
868年、桂林に戍していた徐州の兵が将を殺して龐勛を立て、勝手に本鎮へ帰還した。龐勛は徐州を陥れて節度使を殺し、短い間に五万の衆を集めた。869年に宿州の守将が降って徐州は取り戻され、旧唐書は龐勛が追撃されて渙河で溺死したとし、資治通鑑は沙陀に追われて乱戦の中で死んだとする。新唐書は龐勛が誅に伏したとだけ書く。873年、李漼は鳳翔の法門寺から仏骨を迎えさせ、安福門に登って礼した。資治通鑑によれば、多くの群臣が諫めたが、李漼は生きて見られれば死んでも恨みはないと答えた。同じ年、李漼は病んで普王李儼を皇太子に立て、咸寧殿で崩じた。旧唐書は普王を制で立てたとし、新唐書は神策軍の劉行深と韓文約が立てたとして、資治通鑑は二人の擁立ののちに制が出たとする。旧唐書の史臣は、宦官と僧を近づけたことを評し、仏骨が都に入るとまもなく葬送の車が出たと書く。
在位中の出来事(11件)
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唐の歴代皇帝
24名の一覧- 第1代高祖618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗684年 / 705–710年暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年 / 710–712年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–827年暗殺
- 第17代文宗827–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年 / 901–904年暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 李裕900–901年暗殺
- 李承宏763年不詳
- 襄王李熅886–887年処刑