
唐第11代統一王朝
代宗李豫
在位 762年5月18日〜779年6月10日(17年27日)
代宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 巻十一(代宗紀)
- 即位経路
- 旧唐書 巻十一(代宗紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
李豫は唐の粛宗の長子で、762年に父の死を受けて即位し、子の雍王李适に史朝義を討たせて安史の乱を終わらせた。翌763年には吐蕃に長安へ入られて陝州へ逃れ、779年に病で世を去った。
即位まで
李豫は母を章敬皇太后呉氏とし、初めの名を俶といい、若くして広平王に封じられた。758年に皇太子に立てられ、名を豫と改めた。762年、粛宗が危篤になると張皇后は越王李係を宮中に引き入れ、旧唐書の本紀はこれを太子を廃する企てとし、新唐書の本紀と資治通鑑は太子が応じなかった李輔国誅殺の企てとする。宦官の李輔国と程元振は兵で太子を護り、張皇后を別殿に幽閉した。粛宗が崩じると、程元振らが李豫を迎えて群臣に会わせ、李豫は柩の前で即位した。張皇后のその後を両唐書の本紀は幽閉までしか書かず、資治通鑑は李輔国らが殺したとする。
治世と最期
762年、李輔国は自邸で盗に殺されて首を持ち去られた。資治通鑑は、李豫が李輔国の専横を不快に思いつつ功があるので公然とは誅さなかったとし、考異はひそかに刺させたという説を引いたうえで旧唐書に従う。李豫は雍王李适に回紇などの兵を率いさせて史朝義を討たせ、河北を平定した。史朝義の最期を、旧唐書は李懐仙が首を献じたとし、新唐書は翌年の自殺とし、資治通鑑は林の中で首をくくったのを李懐仙が首を取ったとする。763年、吐蕃が長安に迫ると李豫は陝州へ逃れ、吐蕃は広武王李承宏を皇帝に立てたが、郭子儀が都を取り戻した。その罪を問われた程元振を、李豫は護衛の功を重んじて斬らず、郷里へ帰した。770年、観軍容使を罷めた魚朝恩の死を、旧唐書の本紀は自ら首をくくったとし、資治通鑑は李豫が引き留めて叛意を責めたのち周皓らが絞め殺したとして、考異は自縊の説を退ける。779年、李豫は病んで皇太子に監国を命じ、その夜に紫宸殿の内殿で崩じた。旧唐書の史臣は、李輔国・程元振・魚朝恩を酷刑によらずに退けた点を評価している。
在位中の出来事(19件)
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唐の歴代皇帝
24名の一覧- 第1代高祖618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗684年 / 705–710年暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年 / 710–712年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–827年暗殺
- 第17代文宗827–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年 / 901–904年暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 李裕900–901年暗殺
- 李承宏763年不詳
- 襄王李熅886–887年処刑