
明第17代統一王朝
崇禎帝朱由検
在位 1627年10月2日〜1644年4月25日(16年210日)
姓朱諱由検廟号毅宗諡号荘烈愍皇帝元号崇禎
崇禎帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 明史 本紀二十四(荘烈帝二)
- 即位経路
- 明史 本紀二十三(荘烈帝一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
即位してすぐに魏忠賢を除いたが、李自成の軍に北京を落とされて命を絶ち、明史の本紀がその死をもって明の滅亡と記す皇帝である。明史の賛は、即位当初には奸逆を除いて治平が望まれたものの大勢はすでに傾いており、政務に励みながら宦官を信任するなど手立てを誤ったと評する。
即位まで
泰昌帝の第五子で、母の劉賢妃は早くに没し、1622年に信王に封じられた。1627年に兄の天啓帝が危篤となると召されて遺命を受け、即位した。明史の后妃伝は、魏忠賢の企みを挫いて信王に位を伝えさせたのは天啓帝の張皇后だったと書くが、本紀はこれに触れない。
治世と最期
即位の年のうちに魏忠賢を鳳陽へ移し、魏忠賢は途中の阜城で首をくくった。帝はその屍を磔にさせた。1629年、遼東の袁崇煥が双島で毛文龍を殺した。清軍が京師に迫るなか、帝は袁崇煥を召して獄に下し、1630年に殺した。本紀は理由を書かない。袁崇煥伝によれば、清が密約があるかのように捕虜の宦官に聞かせて逃がし、帝がそれを信じたためで、袁崇煥は謀叛の罪で市で磔にされ、天下はこれを冤罪と見た。1644年、李自成の軍が北京の外城と内城を相次いで落とした。明史の流賊伝は外城の彰義門を太監の曹化淳が開いたとし、崇禎実録は内城の宣武門を太監の王相尧が開いたとする。本紀は、帝が衣の襟に、死んで祖宗にあわせる顔が無い、民は一人も傷つけるなと書き残して万歳山で没したと記し、自ら縊れたとも煤山とも書かない。流賊伝は、帝が煤山に登って山亭で帛を用いて自ら縊れ、王承恩もそばで縊れたと書く。
在位中の出来事(15件)
改元1627年10月2日元号を「崇禎」とする
大赦1627年10月2日
立后1627年11月4日
大赦1629年
被反乱1629年薊州兵変
大赦1630年
被反乱1630年〜1631年陝西流賊初期蜂起(王嘉胤・上天龍・劉六ら)
被反乱1630年張献忠の乱
被反乱1631年〜1633年孔有徳の乱(登萊兵変・呉橋兵変)
被反乱1631年〜1638年罗汝才の乱(第一次)
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被反乱1634年〜1636年高迎祥(闖王)の乱
被反乱1634年〜1644年李自成の乱
被反乱1636年寧夏兵変
被反乱1639年〜1643年罗汝才の乱(第二次)
被反乱日付不詳水西賊(奢崇明・安邦彦)残党
明の歴代皇帝
16名の一覧- 第1代洪武帝1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年 / 1457–1464年病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1567年病死
- 第13代隆慶帝1567–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自尽