本文へスキップ
崇禎帝の肖像

明(みん)第17代統一王朝

崇禎帝(すうていてい)朱(しゅ)由検(ゆうけん)

在位 1627年10月2日〜1644年4月25日(16年210日)

姓朱(しゅ)諱由検(ゆうけん)廟号毅宗(きそう)諡号荘烈愍皇帝(そうれつびんこうてい)元号崇禎(すうてい)

崇禎帝の人物データ

生年
1611年1月
在位
  • 1627年10月2日〜1644年4月25日
在位 16年210日18歳で即位(数え年)・長さは365名中73位
没年
1644年4月25日35歳(数え年)267名中長寿順163位タイ
死因
自尽非業の死・365名中14名
即位経路
世襲
先代
次代
  • 弘光帝南明弘光帝は崇禎帝の従兄弟

出典(死因・即位経路)

死因
明史 本紀二十四(荘烈帝二)
即位経路
明史 本紀二十三(荘烈帝一)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

即位してすぐに魏(ぎ)忠賢(ちゅうけん)を除いたが、李自成(りじせい)の軍に北京を落とされて命を絶ち、明史(みんし)の本紀(ほんぎ)がその死をもって明の滅亡と記す皇帝である。明史(みんし)の賛(さん)は、即位当初には奸逆(かんぎゃく)を除いて治平が望まれたものの大勢はすでに傾いており、政務に励みながら宦官(かんがん)を信任するなど手立てを誤ったと評する。

即位まで

泰昌帝(たいしょうてい)の第五子で、母の劉(りゅう)賢妃(けんぴ)は早くに没し、1622年に信王(しんおう)に封じられた。1627年に兄の天啓帝(てんけいてい)が危篤となると召されて遺命を受け、即位した。明史(みんし)の后妃伝(こうひでん)は、魏(ぎ)忠賢(ちゅうけん)の企みを挫いて信王(しんおう)に位を伝えさせたのは天啓帝(てんけいてい)の張皇后(こうごう)だったと書くが、本紀(ほんぎ)はこれに触れない。

治世と最期

即位の年のうちに魏(ぎ)忠賢(ちゅうけん)を鳳陽(ほうよう)へ移し、魏(ぎ)忠賢(ちゅうけん)は途中の阜城(ふじょう)で首をくくった。帝はその屍(しかばね)を磔(はりつけ)にさせた。1629年、遼東(りょうとう)の袁(えん)崇煥(すうかん)が双島(そうとう)で毛文龍(ぶんりゅう)を殺した。清軍が京師に迫るなか、帝は袁(えん)崇煥(すうかん)を召して獄に下し、1630年に殺した。本紀(ほんぎ)は理由を書かない。袁(えん)崇煥(すうかん)伝によれば、清が密約があるかのように捕虜の宦官(かんがん)に聞かせて逃がし、帝がそれを信じたためで、袁(えん)崇煥(すうかん)は謀叛(むほん)の罪で市で磔(はりつけ)にされ、天下はこれを冤罪(えんざい)と見た。1644年、李自成(りじせい)の軍が北京の外城と内城を相次いで落とした。明史(みんし)の流賊伝(りゅうぞくでん)は外城の彰義門(しょうぎもん)を太監(たいかん)の曹化淳(かじゅん)が開いたとし、崇禎実録(すうていじつろく)は内城の宣武門(せんぶもん)を太監(たいかん)の王相尧(そうぎょう)が開いたとする。本紀(ほんぎ)は、帝が衣の襟に、死んで祖宗にあわせる顔が無い、民は一人も傷つけるなと書き残して万歳山(ばんざいざん)で没したと記し、自ら縊(くび)れたとも煤山(ばいざん)とも書かない。流賊伝(りゅうぞくでん)は、帝が煤山(ばいざん)に登って山亭(さんてい)で帛(はく)を用いて自ら縊(くび)れ、王承恩(しょうおん)もそばで縊(くび)れたと書く。

在位中の出来事(15件)

改元1627年10月2日元号を「崇禎」とする
大赦1627年10月2日
立后1627年11月4日
大赦1629年
被反乱1629年薊州兵変
大赦1630年
被反乱1630年〜1631年陝西流賊初期蜂起(王嘉胤・上天龍・劉六ら)
被反乱1630年張献忠の乱
被反乱1631年〜1633年孔有徳の乱(登萊兵変・呉橋兵変)
被反乱1631年〜1638年罗汝才の乱(第一次)
残り5件を表示
被反乱1634年〜1636年高迎祥(闖王)の乱
被反乱1634年〜1644年李自成の乱
被反乱1636年寧夏兵変
被反乱1639年〜1643年罗汝才の乱(第二次)
被反乱日付不詳水西賊(奢崇明・安邦彦)残党

明の歴代皇帝

16名の一覧

即位経路が「世襲」の120名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。