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衛王の肖像

南宋(なんそう)第10代分裂期の王朝

衛王(えいおう)趙(ちょう)昺(へい)

在位 1278年5月10日〜1279年3月19日(313日)

姓趙(ちょう)諱昺(へい)別称祥興帝(しょうこうてい)

衛王の人物データ

生年
1272年2月12日
在位
  • 1278年5月10日〜1279年3月19日
在位 313日7歳で即位(数え年)・長さは365名中298位
没年
1279年3月19日8歳(数え年)267名中長寿順263位
死因
自尽非業の死・365名中14名
即位経路
擁立
先代
  • 端宗南宋衛王は端宗の弟
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
宋史 本紀 巻四十七(瀛国公二王附)
即位経路
宋史 本紀 巻四十七(瀛国公二王附)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

兄の端宗(たんそう)の死後に海上の宋(そう)の遺臣(いしん)に立てられ、厓山(がいざん)の戦いに敗れて陸秀夫(しゅうふ)に背負われて海に沈み、宋(そう)の最後の皇帝となった人物である。

即位まで

度宗(たくそう)の庶子(しょし)で、母は修容(しゅうよう)の俞氏(ゆし)である。兄の恭帝(きょうてい)が立てられると信王(しんおう)となり、元軍が臨安(りんあん)に迫ると広王(こうおう)に移された。1276年に陳宜中(ぎちゅう)らが兄の昰(し)を福州(ふくしゅう)で立てると、衛王(えいおう)に封じられた。1278年、海上を逃れていた昰(し)が碙洲(こうしゅう)で没すると、その2日後に衆臣が衛王(えいおう)を立てた。陸秀夫(しゅうふ)伝によれば、群臣が散ろうとしたとき、陸秀夫(しゅうふ)が度宗(たくそう)の子がなお一人いると説いて衛王(えいおう)を立てた。

治世と最期

同じ年に祥興(しょうこう)と改元(かいげん)し、厓山(がいざん)に移った。1279年に元の張弘範(こうはん)の軍が厓山(がいざん)に迫ると、張世傑(せいけつ)は千余艘の大船を綱でつないで城のように固め、衛王(えいおう)をその中に置いた。決戦の日に宋(そう)軍は挟み撃ちにされて崩れ、張世傑(せいけつ)は十余艘で港を抜け出した。陸秀夫(しゅうふ)は衛王(えいおう)の舟がつながれていて抜け出せないと見て、妻子を海へ追い入れたのち、衛王(えいおう)を背負って海に身を投げた。このサイトの死因が自尽となっているのは、陸秀夫(しゅうふ)とともに入水して国に殉じた形を自尽に数えたことによる。宋史(そうし)は陸秀夫(しゅうふ)がそのとき何を言ったかを記さず、清の続資治通鑑(しじつがん)は、陛下も国のために死ぬべきだと言ったと書く。楊太后(ようたいこう)も知らせを聞いて海に身を投げ、張世傑(せいけつ)ものちに死んで、宋(そう)は滅んだ。

在位中の出来事(1件)

改元1278年5月23日元号を「祥興」とする

南宋の歴代皇帝

9名の一覧

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