金第9代分裂期の王朝
哀宗完顔守緒
在位 1224年1月15日〜1234年2月9日(10年28日)
哀宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 金史 巻十八(哀宗本紀下)
- 即位経路
- 金史 巻九十九(撒合輦伝)/巻十七(哀宗本紀上)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
蒙古に追われて汴京から帰徳、蔡州へと移り、落城の直前に位を譲って自ら命を絶った金の皇帝である。金史の賛は、治世に見るべきものは無いとしつつ、国君は社稷に死すという礼に照らして恥じるところは無いと評する。
即位まで
宣宗の第三子で、生母は明恵皇后王氏だが、子の無い仁聖皇后に我が子として育てられた。1216年に皇太子となった。宣宗紀によれば、1224年に宣宗が没したとき、年長の異母兄の英王守純が先に宮中に入っていたため、皇太子は東華門に兵を集めて守純を監禁させ、柩の前で即位した。
治世と最期
1232年、鈞州の三峰山で金軍が蒙古軍に大敗し、完顔合達らが死んで、以後金の兵は立ち直らなかった。1233年、太后や皇后と泣いて別れて汴京を発ち、黄河を渡って衛州を攻めたが果たせず、夜のうちに軍を捨てて帰徳へ逃れた。同じ年、汴京では崔立が留守の宰執を殺して蒙古に降り、帰徳では蒲察官奴が乱を起こして哀宗を囚われの身とした。官奴を誅したのち蔡州に移り、宋に食糧を借りようとして、金が滅べば次は宋だと説かせたが、宋は応じず、逆に兵と糧を出して蒙古の蔡州攻めを助けた。1234年、西の城壁が崩されてから半月あまりのち、夜に百官を集めて東面元帥の承麟に位を伝え、自分は体が肥えて馬で駆けられないが、承麟なら逃れて国の統を保てるかもしれないと述べた。承麟が即位した直後に城が破られ、哀宗は幽蘭軒で首をくくり、承麟もまもなく乱兵に殺されて金は滅んだ。金史の本紀は遺骨を奉御の絳山が汝水のほとりに埋めたとし、元史の太宗紀は宋の兵が骨を持ち帰ったとし、宋史の孟珙伝は孟珙と蒙古の将が骨を分けたとする。宋に降った息州の諸将は、哀宗に昭宗と諡した。