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金(きん)第6代分裂期の王朝

章宗(しょうそう)完顔(ワンヤン)璟(けい)

在位 1189年1月20日〜1208年12月29日(19年348日)

女真名麻達葛(マダガ)

章宗の人物データ

生年
1168年8月31日
在位
  • 1189年1月20日〜1208年12月29日
在位 19年348日22歳で即位(数え年)・長さは365名中57位
没年
1208年12月29日41歳(数え年)267名中長寿順127位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 世宗金章宗は世宗の孫
次代

出典(死因・即位経路)

死因
金史 巻十三(衛紹王本紀・冒頭部)
即位経路
金史 巻九(章宗本紀一)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

祖父の世宗(せいそう)から位を継いだ金の皇帝で、礼楽や官制を整えたが、宋(そう)の北伐(ほくばつ)に応じて戦い、跡継ぎを残せなかった。本紀(ほんぎ)の賛(さん)は、一代の治規(ちき)を成したと称えつつ、寵愛(ちょうあい)した婢が朝政を擅(ほしいまま)にし、伝えるべきでない者に位を伝えたと評する。

即位まで

世宗(せいそう)の皇太子だった顕宗(けんそう)の嫡子(ちゃくし)で、母は孝懿皇后(こういこうごう)徒単氏(とたんし)である。1185年に父の顕宗(けんそう)が没すると、世宗(せいそう)は翌年の冬に章宗(しょうそう)を皇太孫(たいそん)に立て、明徳皇后(めいとくこうごう)の嫡孫(ちゃくそん)はお前一人だと諭した。1189年に世宗(せいそう)が没し、柩(ひつぎ)の前で即位した。

治世と最期

即位の年に京・府や節鎮(せっちん)・防御州(ぼうぎょしゅう)に学校を設けるよう詔し、翌年の初めに明昌(めいしょう)と改元(かいげん)した。1196年には南郊で天を祭って大赦し、承安(しょうあん)と改元(かいげん)した。宗浩(そうこう)伝によれば、北部の広吉剌(こうきつら)がたびたび諸部を脅して塞内(さいない)に入り、阻珝(そく)も背いて、章宗(しょうそう)は宗浩(そうこう)の願いを容れて先に広吉剌(こうきつら)を討たせた。1198年に北辺の戦役が収まったとして、将士に金幣を賜った。1203年、宋(そう)の韓侂胄(たくちゅう)が北侵を企てていると報告した完顔(かんがん)阿魯帯(あろたい)を、事を起こすものだと怒って笞打(むちう)って左遷(させん)したが、のちに淮平(わいへい)が落ちると抜擢(ばってき)した。1206年に宋(そう)が盟約を破って兵を出すと、僕散(ぼくさん)揆(き)に諸道の兵を率いさせて宋(そう)を伐たせた。翌年、宋(そう)は和を乞い、韓侂胄(たくちゅう)を誅(ちゅう)したと伝えてきたので、章宗(しょうそう)はその首を差し出して淮南(わいなん)の地を贖(あがな)うよう求めた。1208年に和議を許したことを詔し、六路(ろくろ)の夏税(かぜい)を免じた。生まれた子はみな幼くして死に、1200年には跡継ぎを求めて太廟(たいびょう)と山陵(さんりょう)に祈った。皇后の位は長く空いたままで、章宗(しょうそう)は李師児(りしじ)を立てようとしたが大臣が固く従わず、元妃(げんぴ)に進めた。1208年に病に倒れて福安殿(ふくあんでん)で没した。章宗(しょうそう)はもともと叔父の衛紹王(えいしょうおう)を立てたいと考え、危篤の際に元妃(げんぴ)李氏(りし)らが完顔(かんがん)匡(きょう)を召して擁立を定め、遺詔(いしょう)は身ごもった宮人(きゅうじん)二人に男子が生まれれば跡継ぎとするよう命じた。翌年、元妃(げんぴ)李氏(りし)は承御(しょうぎょ)賈氏(かし)に懐妊を偽らせた罪で死を賜ったが、后妃伝(こうひでん)は完顔(かんがん)匡(きょう)が定策(ていさく)の功を奪うために罪を作ったという説も載せる。

在位中の出来事(9件)

大赦1189年6月2日世宗の祔廟礼成に伴う大赦。
改元1190年元号を「明昌」とする
大赦1193年岁星・太白昼见の後の大赦。
被反乱1194年〜1198年西北路阻卜(広吉剌部等)の乱
改元1196年元号を「承安」とする
大赦1196年南郊祭祀(有事于南郊)に伴う大赦。
被反乱1196年特满群牧契丹陀锁・徳寿の乱
改元1201年元号を「泰和」とする
大赦1203年律令制定・土徳確定・鳳凰出現・皇嗣(皇子忒邻=葛王)誕生を機とする大赦。

金の歴代皇帝

10名の一覧

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