金第6代分裂期の王朝
章宗完顔璟
在位 1189年1月20日〜1208年12月29日(19年348日)
章宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 金史 巻十三(衛紹王本紀・冒頭部)
- 即位経路
- 金史 巻九(章宗本紀一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
祖父の世宗から位を継いだ金の皇帝で、礼楽や官制を整えたが、宋の北伐に応じて戦い、跡継ぎを残せなかった。本紀の賛は、一代の治規を成したと称えつつ、寵愛した婢が朝政を擅にし、伝えるべきでない者に位を伝えたと評する。
即位まで
世宗の皇太子だった顕宗の嫡子で、母は孝懿皇后徒単氏である。1185年に父の顕宗が没すると、世宗は翌年の冬に章宗を皇太孫に立て、明徳皇后の嫡孫はお前一人だと諭した。1189年に世宗が没し、柩の前で即位した。
治世と最期
即位の年に京・府や節鎮・防御州に学校を設けるよう詔し、翌年の初めに明昌と改元した。1196年には南郊で天を祭って大赦し、承安と改元した。宗浩伝によれば、北部の広吉剌がたびたび諸部を脅して塞内に入り、阻珝も背いて、章宗は宗浩の願いを容れて先に広吉剌を討たせた。1198年に北辺の戦役が収まったとして、将士に金幣を賜った。1203年、宋の韓侂胄が北侵を企てていると報告した完顔阿魯帯を、事を起こすものだと怒って笞打って左遷したが、のちに淮平が落ちると抜擢した。1206年に宋が盟約を破って兵を出すと、僕散揆に諸道の兵を率いさせて宋を伐たせた。翌年、宋は和を乞い、韓侂胄を誅したと伝えてきたので、章宗はその首を差し出して淮南の地を贖うよう求めた。1208年に和議を許したことを詔し、六路の夏税を免じた。生まれた子はみな幼くして死に、1200年には跡継ぎを求めて太廟と山陵に祈った。皇后の位は長く空いたままで、章宗は李師児を立てようとしたが大臣が固く従わず、元妃に進めた。1208年に病に倒れて福安殿で没した。章宗はもともと叔父の衛紹王を立てたいと考え、危篤の際に元妃李氏らが完顔匡を召して擁立を定め、遺詔は身ごもった宮人二人に男子が生まれれば跡継ぎとするよう命じた。翌年、元妃李氏は承御賈氏に懐妊を偽らせた罪で死を賜ったが、后妃伝は完顔匡が定策の功を奪うために罪を作ったという説も載せる。