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成宗の肖像

元(げん)第6代統一王朝

成宗(せいそう)テムル

在位 1294年5月10日〜1307年2月10日(12年279日)

漢字音写鉄穆耳(テムル)

成宗の人物データ

生年
1265年10月15日
在位
  • 1294年5月10日〜1307年2月10日
在位 12年279日長さは365名中107位
没年
1307年2月10日42歳(数え年)267名中長寿順122位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 世祖元成宗は世祖の孫
次代
  • 武宗元武宗は成宗の甥

出典(死因・即位経路)

死因
元史 巻二十一(成宗四)
即位経路
元史 巻十八(成宗一)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

祖父の世祖(せいそ)の跡を継いだ元の皇帝で、在位中に北辺の諸王との戦いがやんだが、財政は傾き、晩年は病のため政を皇后と宰臣(さいしん)に任せた。本紀(ほんぎ)の賛(さん)は、世祖(せいそ)の後を守った守成(しゅせい)の君と評する。

即位まで

裕宗(ゆうそう)チンキムの第三子である。世祖(せいそ)の命でカダアンの再叛(さいはん)を討ち、1293年に皇太子の宝を受けて北辺の軍を統べた。1294年に世祖(せいそ)が没すると北辺の軍中に知らせが届き、上都(じょうと)の大安閣(だいあんかく)で即位した。玉昔帖木児(ゆしてむる)伝によれば、定策(ていさく)の場で晋王(しんおう)カマラが北面して仕えたいと答えて推戴が決まった。伯顔(ばやん)伝によれば、異論を唱える親王に対し、伯顔(ばやん)が剣を握って殿陛(でんぺい)に立ち、世祖(せいそ)の遺命を説いた。本紀(ほんぎ)はこうした経緯を書かず、宗族が祖訓に従って推戴したとだけ言う。

治世と最期

1298年に会計を問うと、右丞相(じょうしょう)の完沢(かんたく)は、歳入では足りず至元鈔(しげんしょう)の準備金から借りていると答えた。翌年には中書省(ちゅうしょしょう)が、歳入は半年分にも足らず鈔法(しょうほう)も壊れかねないと上言(じょうげん)した。1301年に甥(おい)のカイシャンが北辺で海都(かいと)と戦い、海都(かいと)は志を得ずに去ってまもなく死んだと武宗本紀(ぶそうほんぎ)は記すが、成宗本紀(せいそうほんぎ)にはこの戦いが無い。1303年には都哇(とわ)らが使者を送って戦いをやめることを請うた。同じ年、八百媳婦(はっぴゃくせきふ)への遠征で軍を失った劉(りゅう)深を誅(ちゅう)した。皇后の伯岳吾(はくがくご)氏を本紀(ほんぎ)は1299年に冊立(さくりつ)したとし、后妃伝(こうひでん)は元貞(げんてい)の初めに立てて1299年に冊宝(さくほう)を授けたとする。1302年に病み、后妃伝(こうひでん)によれば、病がちの成宗(せいそう)に代わって皇后が内にあって政を執り、宰臣(さいしん)の哈剌哈孫(はらはそん)を信任した。1306年の初めに皇太子の徳寿(とくじゅ)が没し、翌年に成宗(せいそう)も玉徳殿(ぎょくとくでん)で没した。后妃伝(こうひでん)によれば、成宗(せいそう)の死後に皇后は安西王(あんせいおう)アナンダを立てようとしたが、仁宗(じんそう)が安西王(あんせいおう)を誅(ちゅう)して皇后を東安州(とうあんしゅう)へ出した。武宗本紀(ぶそうほんぎ)は、皇后が称制(しょうせい)してアナンダが補佐する計画だったとし、皇后はのちに死を賜ったと記して、后妃伝(こうひでん)と筋が違う。

在位中の出来事(15件)

大赦1294年5月10日至元三十一年四月十四日(甲午)、即位に伴う大赦。
被反乱1294年7月諸王阿只吉部玉速福の反乱
改元1294年12月15日元号を「元貞」とする
被反乱1295年〜1303年西北諸王(察合台汗国方面)の反乱
被反乱1296年吐蕃(西蕃)の反乱(階州侵攻)
被反乱1296年〜1297年上思州黄胜許の反乱
改元1297年元号を「大徳」とする
大赦1297年大徳元年(本紀では正月から遡って大徳元年と表記されるが実際の改元詔勅はこの日)二月庚申、改元と同時に大赦。
立后1299年大徳三年十月壬子、伯岳吾氏(後の卜魯罕皇后)を皇后に冊立。
被反乱1301年〜1304年西南夷反乱群(宋隆済・蛇節・亦乞不薛・阿永・雄挫の乱)
残り5件を表示
大赦1302年大徳六年三月丁酉、旱害・水害を機とした大赦。
大赦1305年大徳九年二月辛丑、全国規模の大赦。
被反乱1306年雲南羅雄州阿邦龙少の反乱
被反乱1306年来安路総管岑雄の反乱
被反乱1307年1月31日瓊州臨高県那蓬洞主王文何の反乱

元の歴代皇帝

11名の一覧

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