
元第6代統一王朝
成宗テムル
在位 1294年5月10日〜1307年2月10日(12年279日)
成宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 元史 巻二十一(成宗四)
- 即位経路
- 元史 巻十八(成宗一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
祖父の世祖の跡を継いだ元の皇帝で、在位中に北辺の諸王との戦いがやんだが、財政は傾き、晩年は病のため政を皇后と宰臣に任せた。本紀の賛は、世祖の後を守った守成の君と評する。
即位まで
裕宗チンキムの第三子である。世祖の命でカダアンの再叛を討ち、1293年に皇太子の宝を受けて北辺の軍を統べた。1294年に世祖が没すると北辺の軍中に知らせが届き、上都の大安閣で即位した。玉昔帖木児伝によれば、定策の場で晋王カマラが北面して仕えたいと答えて推戴が決まった。伯顔伝によれば、異論を唱える親王に対し、伯顔が剣を握って殿陛に立ち、世祖の遺命を説いた。本紀はこうした経緯を書かず、宗族が祖訓に従って推戴したとだけ言う。
治世と最期
1298年に会計を問うと、右丞相の完沢は、歳入では足りず至元鈔の準備金から借りていると答えた。翌年には中書省が、歳入は半年分にも足らず鈔法も壊れかねないと上言した。1301年に甥のカイシャンが北辺で海都と戦い、海都は志を得ずに去ってまもなく死んだと武宗本紀は記すが、成宗本紀にはこの戦いが無い。1303年には都哇らが使者を送って戦いをやめることを請うた。同じ年、八百媳婦への遠征で軍を失った劉深を誅した。皇后の伯岳吾氏を本紀は1299年に冊立したとし、后妃伝は元貞の初めに立てて1299年に冊宝を授けたとする。1302年に病み、后妃伝によれば、病がちの成宗に代わって皇后が内にあって政を執り、宰臣の哈剌哈孫を信任した。1306年の初めに皇太子の徳寿が没し、翌年に成宗も玉徳殿で没した。后妃伝によれば、成宗の死後に皇后は安西王アナンダを立てようとしたが、仁宗が安西王を誅して皇后を東安州へ出した。武宗本紀は、皇后が称制してアナンダが補佐する計画だったとし、皇后はのちに死を賜ったと記して、后妃伝と筋が違う。