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泰定帝の肖像

元(げん)第10代統一王朝

泰定帝(たいていてい)イェスン・テムル

在位 1323年10月4日〜1328年8月15日(4年317日)

漢字音写也孫鉄木児(イェスン・テムル)

泰定帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1323年10月4日〜1328年8月15日
在位 4年317日長さは365名中192位
没年
1328年8月15日36歳(数え年)267名中長寿順151位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立
先代
次代

出典(死因・即位経路)

死因
元史 巻三十(泰定帝二)
即位経路
元史 巻二十九(泰定帝一)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

泰定帝(たいていてい)はイェスン・テムルで、顕宗(けんそう)甘麻剌(カマラ)の長子、裕宗(ゆうそう)の嫡孫(ちゃくそん)である。1323年に英宗(えいそう)が弑(しい)されたのち、北辺の鎮所で、諸王に迎えられて即位した。

即位まで

元史(げんし)は、泰定帝(たいていてい)が1302年に父の晋王(しんおう)位を継ぎ、北辺を鎮めたと記す。1323年、御史大夫(ぎょしたいふ)の鉄失(てっしつ)が晋王(しんおう)に、事が成れば王を推して皇帝に立てると告げさせ、同じ使者に王府内史(おうふないし)の倒剌沙(とうらつさ)へも事を告げさせた。晋王(しんおう)は使者を囚えて上都(じょうと)へ使いを出したが、使いは間に合わなかった。本紀(ほんぎ)はそれより前に、倒剌沙(とうらつさ)が朝廷の動きをうかがい、主上は晋王(しんおう)を容れまいと告げた宣徽使(せんきし)の探忒(たんとく)と深く結んでいたことも記す。英宗(えいそう)は南坡(なんぱ)で鉄失(てっしつ)らに弑(しい)された。諸王が玺綬(じじゅ)を奉じて晋王(しんおう)の鎮所へ迎え、晋王(しんおう)は龍居河(りゅうきょが)で皇帝の位に即いて大赦した。即位の詔は、自分は世祖(せいそ)の嫡派(ちゃくは)、裕宗(ゆうそう)の長孫(ちょうそん)で、他に争い立つ兄弟は無いと述べ、先代の英宗(えいそう)を我が侄(てつ)の皇帝と呼んだ。

治世と最期

1323年冬、泰定帝(たいていてい)は即位を天地宗廟(そうびょう)に告げ、鉄失(てっしつ)らを誅(ちゅう)させた。1324年、八八罕(はちはちかん)氏を皇后に冊(さく)し、皇子の阿速吉八(アリギバ)を皇太子に立てた。1325年、天下を十八道(じゅうはちどう)に分けて使者を遣わし、官吏の不法を按問(あんもん)し、民の疾苦を問わせた。1328年、泰定帝(たいていてい)は崩じた。泰定帝(たいていてい)紀(き)は崩御(ほうぎょ)の原因も場所も書かず、場所は文宗本紀(ぶんそうほんぎ)が上都(じょうと)と記す。倒剌沙(とうらつさ)が皇太子の阿速吉八(アリギバ)を皇帝に立て、天順(てんじゅん)と改元(かいげん)した。泰定帝(たいていてい)紀(き)の末は、災異が多かったが、祖宗の法を守って天下無事、治平と称されたと評する。

在位中の出来事(16件)

大赦1323年10月4日
改元1324年元号を「泰定」とする
立后1324年泰定元年三月丙午(三月二十日)、大明殿にて八八罕氏(弘吉剌氏、八不罕)を皇后に冊立。
被反乱1324年〜1327年播州(貴州)苗徭の反乱(黎平爱・謝烏窮等)
被反乱1324年〜1325年西番(吐蕃)参卜郎の反乱
大赦1325年
被反乱1325年木邦路(雲南・ビルマ国境)土官八庙の反乱
被反乱1325年站八儿監蔵の反乱(兀敦)
被反乱1326年広西全茗州土官許文傑の反乱
被反乱1326年泉州阮凤子の蜂起
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被反乱1326年〜1327年元江路総管普双の反乱
被反乱1326年息州弥勒教蜂起(赵丑厮・郭菩薩)
大赦1327年
大赦1327年
改元1328年4月7日元号を「致和」とする
被反乱1328年6月広西普寧陳慶安の僭号蜂起

元の歴代皇帝

11名の一覧

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