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成化帝の肖像

明(みん)第9代統一王朝

成化帝(せいかてい)朱(しゅ)見深(けんしん)

在位 1464年2月28日〜1487年9月9日(23年199日)

姓朱(しゅ)諱見深(けんしん)廟号憲宗(けんそう)諡号純皇帝(じゅんこうてい)元号成化(せいか)

成化帝の人物データ

生年
1447年
在位
  • 1464年2月28日〜1487年9月9日
在位 23年199日18歳で即位(数え年)・長さは365名中44位
没年
1487年9月41歳(数え年)267名中長寿順127位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
次代

出典(死因・即位経路)

死因
明史 本紀十四(憲宗二)
即位経路
明史 本紀十三(憲宗一)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

一度皇太子(こうたいし)を廃されてから位に就き、万貴妃を寵愛(ちょうあい)して西廠(せいしょう)を置き、宦官(かんがん)の汪(おう)直に権をふるわせた明の皇帝である。

即位まで

正統帝(せいとうてい)の長子で、母は貴妃(きひ)周氏(しゅうし)である。父が瓦剌(おいらと)に留め置かれたとき、皇太后の命で皇太子に立てられた。1452年、景泰帝(けいたいてい)は汪(おう)皇后(こうごう)を廃すとともに成化帝(せいかてい)を沂王(きおう)に落とし、自分の子の見済(けんせい)を太子に立てた。1457年に父が復位すると皇太子に戻り、見深(けんしん)と改めた。1464年に父が没して即位し、翌年を成化(せいか)元年とした。

治世と最期

廃位のいきさつを蒸し返す者には、景泰(けいたい)のことはもう過ぎたことだと退け、1476年の初めには景泰帝(けいたいてい)の帝号(ていごう)を戻した。后妃伝(こうひでん)によれば、万貴妃は東宮(とうぐう)のころから仕えた年上の女性で、帝の意を迎えるのが巧みで、呉皇后(こうごう)を讒言(ざんげん)で廃させた。寵(ちょう)を独り占めにして、身ごもった後宮の女性に子を堕ろさせたとも后妃伝(こうひでん)は書く。1475年、跡継ぎがいないと嘆く帝に、宦官(かんがん)の張敏(ちょうびん)が、ひそかに育てられている皇子のことを打ち明け、帝は自分に似ていると言って泣いた。この皇子がのちの弘治帝(こうちてい)で、その母の紀氏(きし)は同じ年に急死し、后妃伝(こうひでん)のうち紀氏(きし)の伝は万貴妃が死なせたとも自ら縊(くび)れたとも伝え、万貴妃の伝は貴妃のしわざと書く。1477年に西廠(せいしょう)を置いて汪(おう)直に探らせ、同じ年に大学士(だいがくし)らの請いでいったん罷めたがすぐ復し、1482年に罷め、翌年に汪(おう)直も退けた。本紀(ほんぎ)の賛(さん)は、明断な帝が汪(おう)直に惑わされた禍としてこれを評する。万貴妃は1487年に急病で没し、同じ年に成化帝(せいかてい)も病んで、皇太子に政務を代わらせた数日後に没した。

在位中の出来事(17件)

大赦1464年2月即位に伴う大赦。
立后1464年8月呉氏を皇后に冊立。
立后1464年11月王氏を皇后に冊立。
改元1465年元号を「成化」とする
被反乱1465年〜1466年広西大藤峡瑶乱(初回)
被反乱1465年〜1468年四川山都掌蛮乱
被反乱1466年荆襄刘通・石龙之乱
被反乱1466年〜1483年広西瑶乱(断藤峡复起〜再度鎮圧)
被反乱1467年靖州苗乱(初回)
被反乱1468年満俊之乱(開城賊)
残り7件を表示
被反乱1470年〜1471年荆襄流民再起之乱
大赦1471年皇子祐极の立太子に伴う大赦。
大赦1475年皇子祐樘(後の孝宗)の立太子に伴う大赦。
被反乱1476年靖州苗乱(再発)
被反乱1476年湾溪苗乱
被反乱1477年松潘叠溪苗乱
大赦1485年星変を機とした大赦。

明の歴代皇帝

16名の一覧

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