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正徳帝の肖像

明(みん)第11代統一王朝

正徳帝(せいとくてい)朱(しゅ)厚照(こうしょう)

在位 1505年6月19日〜1521年4月20日(15年309日)

姓朱(しゅ)諱厚照(こうしょう)廟号武宗(ぶそう)諡号毅皇帝(きこうてい)元号正徳(せいとく)

正徳帝の人物データ

生年
1491年10月26日
在位
  • 1505年6月19日〜1521年4月20日
在位 15年309日15歳で即位(数え年)・長さは365名中77位
没年
1521年4月20日31歳(数え年)267名中長寿順182位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
次代
  • 嘉靖帝明嘉靖帝は正徳帝の従兄弟

出典(死因・即位経路)

死因
明史 本紀十六(武宗)
即位経路
明史 本紀十六(武宗)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

劉(りゅう)瑾(きん)ら八虎(はっこ)を寵(ちょう)し、豹房(ひょうぼう)に住み、自ら威武大将軍(いぶだいしょうぐん)を名乗って辺境へ出た明の皇帝である。本紀(ほんぎ)の賛(さん)は、武功で名を挙げようとしたが遊楽にふけって小人を近づけたと評する。

即位まで

孝宗(こうそう)の長子で、1492年に皇太子となり、聡く騎射を好んだ。1505年に孝宗(こうそう)が没すると即位し、翌年を正徳(せいとく)元年とすると定めて大赦した。

治世と最期

1506年、戸部尚書(こぶしょうしょ)韓文が廷臣を率いて馬永成(えいせい)ら8人の宦官(かんがん)の誅殺(ちゅうさつ)を請うたが聴かず、劉(りゅう)瑾(きん)に司礼監(しれいかん)を任せた。劉(りゅう)瑾(きん)らは八虎(はっこ)と呼ばれ、その中で劉(りゅう)瑾(きん)が最も狡猾(こうかつ)だった。1507年には豹房(ひょうぼう)を作った。1510年、安化王(あんかおう)の乱の平定から戻った張永が劉(りゅう)瑾(きん)の不法を奏すると、酔っていた帝は劉(りゅう)瑾(きん)に裏切られたとうなだれ、劉(りゅう)瑾(きん)は獄に下されてまもなく誅(ちゅう)された。錢(せん)寧伝は、豹房(ひょうぼう)を禁内(きんない)に建てるよう請うたのは錢(せん)寧で、錢(せん)寧が帝を微行(びこう)に誘ったと記す。1517年には宣府(せんぷ)から陽和(ようわ)へ行って自ら総督軍務(そうとくぐんむ)威武大将軍(いぶだいしょうぐん)総兵官(そうへいかん)と称し、応州(おうしゅう)を掠(かす)めた小王子(しょうおうじ)と5日間戦って退けた。1518年には自分の仮名の朱寿を鎮国公(ちんこくこう)に封じた。1519年に寧王(ねいおう)宸濠(しんごう)が反すると親征(しんせい)を宣したが、王守仁(しゅじん)が宸濠(しんごう)を捕らえ、帝は届いた捷報(しょうほう)を伏せた。1520年、南京(なんきん)からの帰途に積水池(せきすいち)で漁をして舟が覆り、救われたが病みついた。1521年の郊祀(こうし)で血を吐き、まもなく豹房(ひょうぼう)で没した。危篤のとき、これまでの事はすべて自分の誤りだと告げたという。子が無く、遺詔(いしょう)で興献王(こうけんおう)の長子が後継に召された。

在位中の出来事(12件)

改元1505年元号を「正徳」とする
大赦1505年
立后1506年正徳元年秋八月戊午、『立皇后夏氏』(夏皇后の冊立)。
大赦1510年正徳五年四月辛亥、安化王寘鐇の乱平定に絡み『诏赦天下』(太監張永が寧夏軍務総督を兼ねた同日の記事)
被反乱1510年安化王朱寘鐇の乱
被反乱1510年〜1514年四川(蓝廷瑞・鄢本恕)の乱
被反乱1510年〜1513年江西(華林賊)の乱
被反乱1511年〜1512年劉六・劉七の乱(河北・山東・河南等)
親征1517年小王子(韃靼/モンゴル系勢力)
親征1519年寧王朱宸濠(反乱)
残り2件を表示
被反乱1519年寧王朱宸濠の乱
被反乱1521年3月弥勒州苗の乱

明の歴代皇帝

16名の一覧

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