
明第11代統一王朝
正徳帝朱厚照
在位 1505年6月19日〜1521年4月20日(15年309日)
姓朱諱厚照廟号武宗諡号毅皇帝元号正徳
正徳帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 明史 本紀十六(武宗)
- 即位経路
- 明史 本紀十六(武宗)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
劉瑾ら八虎を寵し、豹房に住み、自ら威武大将軍を名乗って辺境へ出た明の皇帝である。本紀の賛は、武功で名を挙げようとしたが遊楽にふけって小人を近づけたと評する。
即位まで
孝宗の長子で、1492年に皇太子となり、聡く騎射を好んだ。1505年に孝宗が没すると即位し、翌年を正徳元年とすると定めて大赦した。
治世と最期
1506年、戸部尚書韓文が廷臣を率いて馬永成ら8人の宦官の誅殺を請うたが聴かず、劉瑾に司礼監を任せた。劉瑾らは八虎と呼ばれ、その中で劉瑾が最も狡猾だった。1507年には豹房を作った。1510年、安化王の乱の平定から戻った張永が劉瑾の不法を奏すると、酔っていた帝は劉瑾に裏切られたとうなだれ、劉瑾は獄に下されてまもなく誅された。錢寧伝は、豹房を禁内に建てるよう請うたのは錢寧で、錢寧が帝を微行に誘ったと記す。1517年には宣府から陽和へ行って自ら総督軍務威武大将軍総兵官と称し、応州を掠めた小王子と5日間戦って退けた。1518年には自分の仮名の朱寿を鎮国公に封じた。1519年に寧王宸濠が反すると親征を宣したが、王守仁が宸濠を捕らえ、帝は届いた捷報を伏せた。1520年、南京からの帰途に積水池で漁をして舟が覆り、救われたが病みついた。1521年の郊祀で血を吐き、まもなく豹房で没した。危篤のとき、これまでの事はすべて自分の誤りだと告げたという。子が無く、遺詔で興献王の長子が後継に召された。
在位中の出来事(12件)
改元1505年元号を「正徳」とする
大赦1505年
立后1506年正徳元年秋八月戊午、『立皇后夏氏』(夏皇后の冊立)。
大赦1510年正徳五年四月辛亥、安化王寘鐇の乱平定に絡み『诏赦天下』(太監張永が寧夏軍務総督を兼ねた同日の記事)
被反乱1510年安化王朱寘鐇の乱
被反乱1510年〜1514年四川(蓝廷瑞・鄢本恕)の乱
被反乱1510年〜1513年江西(華林賊)の乱
被反乱1511年〜1512年劉六・劉七の乱(河北・山東・河南等)
親征1517年小王子(韃靼/モンゴル系勢力)
親征1519年寧王朱宸濠(反乱)
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被反乱1519年寧王朱宸濠の乱
被反乱1521年3月弥勒州苗の乱
明の歴代皇帝
16名の一覧- 第1代洪武帝1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年 / 1457–1464年病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1567年病死
- 第13代隆慶帝1567–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自尽