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弘治帝の肖像

明(みん)第10代統一王朝

弘治帝(こうちてい)朱(しゅ)祐樘(ゆうとう)

在位 1487年9月22日〜1505年6月8日(17年264日)

姓朱(しゅ)諱祐樘(ゆうとう)廟号孝宗(こうそう)諡号敬皇帝(けいこうてい)元号弘治(こうち)

弘治帝の人物データ

生年
1470年8月
在位
  • 1487年9月22日〜1505年6月8日
在位 17年264日18歳で即位(数え年)・長さは365名中66位
没年
1505年6月8日36歳(数え年)267名中長寿順151位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
次代

出典(死因・即位経路)

死因
明史 本紀十六(武宗、孝宗崩御記事)
即位経路
明史 本紀十五(孝宗)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

生まれを隠されて育ち、即位すると佞幸(ねいこう)を退けて劉(りゅう)健らの大学士(だいがくし)を重く用いた明の皇帝である。明史(みんし)の賛(さん)は、洪武帝(こうぶてい)・永楽帝(えいらくてい)のほかに称えるべき明の皇帝として洪熙帝(こうきてい)・宣徳帝(せんとくてい)とともに弘治帝(こうちてい)を挙げ、恭倹で節度があり、政務に勤めて民を愛したと評する。

即位まで

成化帝(せいかてい)の第三子で、母は淑妃(しゅくひ)紀氏(きし)である。万貴妃が寵(ちょう)を専らにしていたため、1470年に生まれても宮中では誰も成化帝(せいかてい)に言い出せなかった。后妃伝(こうひでん)によれば、紀氏(きし)は安楽堂(あんらくどう)に移されて弘治帝(こうちてい)を生み、溺れさせよと命じられた門監(もんかん)の張敏(ちょうびん)がひそかに育てた。1475年に張敏(ちょうびん)が皇子のことを告げると、成化帝(せいかてい)は自ら西内(せいだい)へ出向(でむ)いて皇子を迎えにやり、我が子だ、私に似ていると泣いた。同じ年に母の紀氏(きし)が急死し、弘治帝(こうちてい)は皇太子に立てられた。紀氏(きし)の死を、本紀(ほんぎ)は急死とだけ書き、后妃伝(こうひでん)は万貴妃に殺されたとする説と自ら縊(くび)れたとする説を並べる。1487年に成化帝(せいかてい)が没して即位した。

治世と最期

即位の直後に李(り)孜省(ししょう)や太監(たいかん)の梁(りょう)芳らを退け、伝奉官(でんぽうかん)千余人を罷免した。劉(りゅう)健を内閣に入れ、1497年からは劉(りゅう)健・李(り)東陽(とうよう)・謝遷を文華殿(ぶんかでん)に召して政務を議するのを常とした。徐溥(じょふ)伝によれば、1495年ごろから朝に臨むのが遅くなり、宦官(かんがん)の李広(りこう)が焼煉(しょうれん)や斎醮(さいしょう)で寵(ちょう)を得た。宦官(かんがん)伝によれば、李広(りこう)は清寧宮(せいねいきゅう)が焼けたのち恐れて自殺し、家から大臣の名が並ぶ賄賂の帳簿が見つかった。本紀(ほんぎ)は1498年の清寧宮(せいねいきゅう)の火災を記すが、李広(りこう)の名は出さない。1505年に病み、劉(りゅう)健・李(り)東陽(とうよう)・謝遷に後事を託して乾清宮(けんせいきゅう)で没した。本紀(ほんぎ)は病名を書かないが、明史(みんし)の劉蒨(りゅうせん)伝が載せる上疏(じょうそ)は、張瑜(ゆ)と劉(りゅう)文泰(ぶんたい)の投薬が慎重でなかったために先帝が没したと述べ、辺貢伝は宦官(かんがん)の張瑜(ゆ)と太医(たいい)の劉(りゅう)文泰(ぶんたい)らの用薬の誤りを辺貢が弾劾したと記す。

在位中の出来事(10件)

改元1487年9月22日元号を「弘治」とする
大赦1487年9月22日九月壬寅、即皇帝位。
立后1487年10月26日
大赦1492年
被反乱1492年〜1493年古田叛僮(広西壮族反乱)
被反乱1492年〜1494年貴州黒苗の反乱
被反乱1495年平楽叛瑶(広西瑶族反乱)
大赦1499年
被反乱1499年〜1502年米魯の乱(普安・貴州)
被反乱1502年〜1503年瓊州黎賊(海南島黎族反乱)

明の歴代皇帝

16名の一覧

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