
清第11代統一王朝
光緒帝載湉
在位 1875年2月25日〜1908年11月14日(33年270日)
姓愛新覚羅諱載湉廟号徳宗諡号景皇帝元号光緒
光緒帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 清史稿 徳宗本紀二(伝統的記述)/国家清史編纂委員会『清光緒帝死因研究工作報告』(清史研究2008年第4期、2008年11月公表)
- 即位経路
- 清史稿 穆宗本紀二/徳宗本紀一
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
日清戦争に敗れたあと変法を始め、同じ年のうちに西太后が訓政を再開して政治の実権を失った清の皇帝である。正史は病死と書くが、2008年の調査で遺髪から致死量を大きく超える砒素が見つかった。
即位まで
道光帝の第七子である醇親王奕譞の子で、母は西太后の妹である。同治帝が子の無いまま没すると、両皇太后は光緒帝を咸豊帝の子として位を継がせ、のちに男子が生まれたらその子を同治帝の後継ぎとすると定めた。即位すると、両皇太后が簾の後ろから政治を執った。
治世と最期
1889年に西太后が政務を返し、光緒帝の親政が始まった。日清戦争の末、1895年の下関条約で朝鮮の独立を認め、台湾と澎湖などを割譲した。1898年に国是を定める詔を出して康有為を取り立てたが、その年の秋に西太后が再び訓政を始め、康有為の逮捕が命じられ、譚嗣同ら6人が斬られた。光緒帝は病とされて瀛台に移された。1900年に八国連合軍が北京を落とすと、西太后に従って太原へ逃れた。1907年に病み、1908年に瀛台で没し、翌日に西太后も没した。清史稿は本紀も西太后の伝も病の経過として書き、毒殺の記述は無い。2008年、中国の合同調査が遺髪・遺骨・衣服を分析し、同時代の人の数百倍の砒素を検出して急性中毒と結論した。このサイトの死因が暗殺となっているのはこの物証による。毒を盛った人物は特定されていない。
在位中の出来事(61件)
改元1875年元号を「光緒」とする
被反乱1875年〜1878年西北回変残余(陝甘・新疆回民起義)
被反乱1875年台湾生番乱(開山撫番期)
被反乱1875年雲南鎮雄匪乱
大赦1875年2月25日光緒元年正月戊午(西暦1875-02-25)、太和殿における即位式当日に赦詔を発し恩科を開いた。
被反乱1876年貴州下江匪乱
被反乱1876年四川蛮匪乱
被反乱1876年雲南鄧川匪乱
被反乱1876年広西陽萬土州判作乱
被反乱1876年甘粛階州斎匪乱
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被反乱1876年〜1877年雲南騰越練軍兵変
被反乱1877年四川穆坪夷匪乱
被反乱1877年四川馬辺倮夷乱
被反乱1877年雲南昭通・広南匪乱
被反乱1878年〜1879年広西李揚才叛乱
被反乱1880年広西西林苗匪乱
被反乱1880年雲南尋甸匪乱
被反乱1880年甘粛階州番匪乱
被反乱1881年湖南江華瑤匪乱
被反乱1881年〜1891年四川雷波夷匪乱
被反乱1881年雲南昭通匪乱
被反乱1881年湖北施南会匪乱
被反乱1881年広西果化土州匪乱
被反乱1882年広西郁林匪乱
被反乱1883年広東高州都司叛乱
被反乱1883年湖南会匪方雪敖の乱
被反乱1883年〜1884年広西台州匪王金満の乱
被反乱1886年海南黎匪乱
被反乱1886年台湾蘇魯馬那邦叛番
立后1888年光緒十四年(1888年)十月癸未、懿旨により葉赫那拉氏(慈禧皇太后の姪、後の孝定景皇后)を皇后に立てた。
被反乱1890年〜1896年四川瞻対番乱
被反乱1890年雲南永北土司謀逆
被反乱1890年雲南鎮康土族乱
被反乱1890年安徽石埭会匪乱
被反乱1890年台湾内山番社酋有敏の乱
被反乱1891年雲南巧家蛮乱
被反乱1891年熱河朝陽金丹道教乱
被反乱1892年広東陽江匪乱
被反乱1892年広西上林・賓州匪乱
被反乱1892年台湾内山番社作乱
被反乱1893年福建徳化匪乱
被反乱1893年湖南醴陵匪乱
被反乱1894年貴州普安匪乱
被反乱1895年〜1896年甘粛河湟回民起義(第二次西北回変)
被反乱1898年戊戌政変
被反乱1899年甘粛海城回乱
被反乱1899年奉天錦州・広寧匪乱
皇太子廃立1901年
被反乱1902年広西・雲南辺境匪乱(皈朝)
被反乱1903年雲南臨安匪乱
被反乱1903年〜1904年広西覃志発匪乱
被反乱1904年〜1905年広西新軍哗変
被反乱1905年四川犍為匪乱
被反乱1905年貴州都匀匪乱
被反乱1905年四川巴塘事変(鳳全遭難)
被反乱1906年萍瀏醴起義
被反乱1907年四川巴塘喇嘛乱(第二次)
被反乱1907年安慶起義(徐錫麟の乱)
被反乱1907年鎮南関起義
被反乱1908年河口起義
被反乱1908年広西巡防営叛乱