
清第9代統一王朝
咸豊帝奕詝
在位 1850年3月9日〜1861年8月22日(11年169日)
咸豊帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 清史稿 文宗本紀
- 即位経路
- 清史稿 文宗本紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
文宗は咸豊帝で、宣宗の第四子、母は孝全成皇后である。1850年に即位し、在位中に洪秀全の乱と英仏との戦が続き、1861年に熱河の行宮で崩じた。
即位まで
清史稿によれば、1846年に立儲の家法により、名を書いて封じられた。宣宗本紀は、重態になった宣宗が載銓・載垣・端華・僧格林沁・穆彰阿らを召して匣を開き、皇四子を皇太子に立てる御書を示し、その日に崩じたと記す。文宗本紀は、宣宗の崩後の己未に即位し、明年を咸豊元年とする詔を出したと記す。
治世と最期
1851年に洪秀全が永安州を陥して太平天国と僭号した。1853年に賊が江寧を陥し、将軍祥厚・提督福珠洪阿らが死んだ。本紀はこれを賊の攻撃として記し、都を定めたとは記さない。1860年、大沽砲台が失守して提督楽善が死に、英国人が天津を陥した。洋兵が通州に至ると、載垣が英使パークスを誘って捕らえた。文宗は円明園から木蘭へ幸し、のち避暑山荘に駐した。本紀は同じ条に円明園の灾と内務府大臣文豊の死を記し、恭親王の伝は英仏の兵が円明園を焼いたと記す。英使・仏使が城に入って和議が成り、恭親王奕訢が約に従い宣示するよう請い、露国人にウスリー・綏芬の駐留が許された。1861年、恭親王が行在への参上を請うと、文宗は手詔で、咳が止まらず痰に血が混じるので静養が必要だと答えた。文宗は不豫となり、大漸となって王大臣に朱諭を書かせ、皇長子を皇太子に立て、翌日に行宮で崩じた。穆宗本紀は、載垣・端華・景寿・粛順と穆蔭・匡源・杜翰・焦祐瀛の八人に政務を賛襄させたと記す。文宗本紀はこの八人を記さない。文宗本紀と穆宗本紀に病名は無く、手詔の咳と血痰の症状があるだけである。