
清第12・13・14代統一王朝
宣統帝溥儀
在位 1908–1912年 / 1917年 / 1934–1945年(14年256日)
宣統帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 近現代の学術的に信頼できる複数情報源(正史範囲外)
- 即位経路
- 清史稿 本紀二十五(宣統皇帝本紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
光緒帝の後を継いだ清の皇帝で、幼くして位に即き、辛亥革命のあと皇太后の懿旨によって退位した。清史稿本紀の論は、すぐに政権を譲り、優待を永く保ったことを千古未有の奇と評する。
即位まで
道光帝の曽孫で、父は醇親王の載灃であり、光緒帝から見ると実の弟の子にあたる。1908年、光緒帝の病が重くなると、慈禧が溥儀を宮中で養うよう命じ、翌日に光緒帝が崩じると、同治帝の後嗣として光緒帝の祧も兼ねて継ぐ嗣皇帝とされた。宣統本紀はどちらも太皇太后の懿旨によるとし、徳宗本紀は、位を継ぐことは光緒帝の遺詔、同治帝の後嗣とすることは皇太后の懿旨によるとする。その翌日には慈禧も崩じた。父の載灃が監国摂政王となって軍国の政務を処理し、溥儀は同じ年に太和殿で即位して、翌年を宣統元年とした。
治世と最期
1911年、武昌の新軍が革命党に付いて武昌が落ち、各省が次々に独立した。同じ年、袁世凱が内閣総理大臣となり、載灃は監国摂政王の印を返して藩邸に退いた。各省の代表は上海で臨時大総統の選挙会を開き、南京に政府を立てて国号を中華民国とした。1912年、袁世凱が皇太后の懿旨を承けて立憲共和の国体を宣示し、溥儀は退位した。優待条件で、皇帝は政権を手放すが尊号は廃さないとされた。清史稿のうち関外本だけが載せる張勲伝によれば、1917年に張勲が兵を率いて北上して復辟させ、溥儀の名で詔が出たが、各省の多くは応じず、張勲は敗れて公使館に逃れた。康有為伝は、1924年の移宮で優待条件が改められ、翌年に溥儀が天津へ移ったことを記す。清史稿は、満洲国での即位と退位、1967年の死については何も記さない。