
明第12代統一王朝
嘉靖帝朱厚熜
在位 1521年5月27日〜1567年1月23日(45年252日)
嘉靖帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 明史 本紀十八(世宗二)/巻307(佞幸・王金伝)
- 即位経路
- 明史 本紀十七(世宗一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
嗣子の無いまま没した正徳帝の跡を傍系から継ぎ、実の父を皇帝として祀るかどうかで群臣と争った大礼の議で知られる明の皇帝である。明史の賛は、初めは弊政を除いたが、大礼の議で大獄を起こし、道教を崇めて造営を重ね、国庫を窮乏させたと評する。
即位まで
成化帝の孫で、父は安陸に封じられた興献王である。1521年に正徳帝が子の無いまま没すると、慈寿皇太后と大学士の楊廷和が策を定め、遺詔によって興献王家から迎えられた。礼官が皇太子として即位する礼を求めると、遺詔は皇帝の位を継がせたのであって皇子としてではないと言って拒み、勧進を受ける形で即位した。
治世と最期
即位の年に進士の張璁が実の父を尊ぶよう上奏し、楊廷和らの反対は聴き入れられなかった。1524年には廷臣が宮門に伏して争い、134人が獄に下され、廷杖で16人が死んだ。同じ年に弘治帝を皇伯考、実の父を皇考と定め、1538年には父に睿宗の廟号を贈ってその位牌を太廟で正徳帝より上に置いた。方士を厚く遇して陶仲文を伯に封じ、丹薬を諫めた太僕卿の楊最は杖で打ち殺された。1542年、本紀は宮人が謀反を企てて誅され、端妃曹氏と寧嬪王氏が市で処刑されたことだけを記す。后妃伝によれば、宮女の楊金英らが眠っている嘉靖帝の首を紐で絞めたが、結び目が固まって死なず、方皇后が駆けつけて解いた。同じ伝は、ともに処刑された端妃は実は謀を知らず、嘉靖帝はのちにその冤罪を知ったと書き、方伎伝は事件を1541年に置く。最晩年に病に倒れ、西苑から乾清宮へ戻ったその日に没した。本紀は死因を書かない。佞幸伝は、方士の王金らが献じた金石の薬を服して帝の体に熱が出たとし、遺詔が王金らに罪を負わせたと書き、明史紀事本末は熱が引かなかったと書く。法司は王金がみだりに薬を進めたという罪には事実が無いとして死罪を退けており、丹薬と死を結びつけるかどうかは明史の中でも分かれている。
在位中の出来事(32件)
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明の歴代皇帝
16名の一覧- 第1代洪武帝1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年 / 1457–1464年病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1567年病死
- 第13代隆慶帝1567–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自尽