
元第5代統一王朝
世祖クビライ
在位 1260年5月5日〜1294年2月18日(33年297日)
世祖の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 元史 巻十七(世祖十四)
- 即位経路
- 元史 巻四(世祖一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
世祖はクビライ(忽必烈)で、睿宗トルイの第四子である。1260年に開平で即位し、1271年に国号を大元と定めた。
即位まで
元史の世祖紀は、母を荘聖太后と記す。1251年に憲宗(モンケ)が即位すると、同母弟のうち最年長で賢かったクビライに、漠南漢地の軍国の庶事を任せたと記す。1259年、長江の北岸にいたクビライに憲宗の凶報が届き、冬には、先朝の臣らが睿宗の第七子アリクブケを立てようと謀った。1260年、開平に集まった諸王と大臣が即位を勧め、クビライは三度辞退したが、固く請われて即位した。即位の詔は、諸王がまず自分を推戴したこと、太祖の嫡孫で先皇の母弟のうち、賢と長を兼ねるのは自分一人だったことを述べる。
治世と最期
1260年、阿藍答児と渾都海の軍は姑臧で諸王に大破され、二人は斬られた。1264年、アリクブケは諸王や謀臣とともに来帰した。帝は諸王を問わず、謀臣の不魯花らを誅した。詔は、太祖の札撒の典刑に照らして処したと述べ、中統五年を至元元年に改めて大赦した。新元史のアリクブケ伝は、アリクブケが入謁した際、どちらが大位を継ぐべきかと問われ、昔は私が正しく、今日はハーンが正しいと答えたと記す。1276年、宋の母后と幼主、諸大臣が璽綬を持って降った。1279年には崖山で広王昺が海に身を投げて死んだ。1281年、日本征討の軍が出発したが、元史の世祖紀は、船が風濤に襲われて大敗し、高麗の境に戻れたのは十のうち一、二だったと記す。1287年、帝は自ら乃顔を征するため上都を発した。乃顔の捕獲を世祖紀は書かず、玉昔帖木児の列伝が、玉昔帖木児が乃顔を獲て献じたと記す。1294年、帝は不豫となり、紫檀殿で崩じた。世祖紀は病名を記さない。