
金第1代分裂期の王朝
太祖完顔阿骨打
在位 1115年1月28日〜1123年9月19日(8年236日)
漢名完顔旻女真名阿骨打
太祖の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 金史 巻二(太祖本紀)
- 即位経路
- 金史 巻二(太祖本紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
金の太祖は完顔阿骨打で、世祖の第二子である。1115年に皇帝の位に即いて国号を金とし、遼の上京と燕京を落とした。
即位まで
金史は、世祖が穆宗に、乌雅束は柔善で、契丹との事を処理できるのは太祖だけだと語ったと記す。1113年に康宗が没し、太祖は位を継いで都勃極烈となった。この時はまだ皇帝ではない。1114年、遼の渤海軍を破ると、撒改が宗翰・完顔希尹を遣わして皇帝を称するよう勧めたが、一戦して勝っただけで大号を称すれば人に浅く見られると退けた。1115年、群臣が尊号を奉り、太祖はその日に皇帝の位に即いて、国号を大金、元号を収国とした。遼史の天祚帝紀は、即位を1117年の条の末に置き、天輔と建元して国号を金としたと記す。
治世と最期
1114年、太祖は出河店で遼の十万の軍と戦い、大風に乗じて破った。1115年には達魯古城で遼軍を破り、黄龍府を落とし、護歩答岡で天祚帝の軍を大破した。収国二年の末、呉乞買と群臣が尊号を上り、翌年を天輔元年とした。1120年、太祖は自ら遼の上京に至り、城を攻めて外城を破ると、留守の撻不野は城をあげて降った。燕京に入ると遼の官僚が降り、太祖は徳勝殿で群臣の賀を受けた。1123年、太祖は不豫となり、宗翰を都統に命じて呉乞買を召し、部堵泺の西の行宮で崩じた。金史は病名を記さず、遼史の天祚帝紀はその死を翌1124年の条に置く。金史の賛は、遼主を捕らえ宋主を捕らえる功が、没後の天会年間に成ったとも言う。
在位中の出来事(17件)
改元1115年1月28日元号を「収国」とする
親征1115年2月〜1115年3月遼・黄龍府方面(達魯古城の戦い、益州攻撃を含む)
親征1115年9月〜1115年10月遼・黄龍府(攻略)
親征1115年12月〜1116年1月遼主親征軍(護歩答岡の戦い)
改元1117年元号を「天輔」とする
被反乱1117年開州の叛乱
被反乱1119年川州寇の叛乱
被反乱1119年東京人質永吉等の叛乱
被反乱1119年〜1120年実里古達(燭隈水部)の乱
親征1120年遼・上京
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被反乱1122年西京の再叛乱
親征1122年7月〜1123年9月遼・燕京および遼主追討(帰還途上で崩御)
大赦1123年天輔七年二月癸丑、大赦。
被反乱1123年黄龍府の再叛乱
被反乱1123年1月蔚州の叛乱
被反乱1123年3月興中・宜州の再叛乱
被反乱1123年6月〜1123年7月張覚の乱
金の歴代皇帝
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