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金(きん)第7代分裂期の王朝

衛紹王(えいしょうおう)完顔(ワンヤン)永済(えいせい)

在位 1208年12月29日〜1213年9月11日(4年257日)

女真名興勝(こうしょう)諡号紹(しょう)

衛紹王の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1208年12月29日〜1213年9月11日
在位 4年257日長さは365名中193位
没年
不詳
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
擁立
先代
  • 章宗金衛紹王は章宗の叔父
次代
  • 宣宗金宣宗は衛紹王の甥

出典(死因・即位経路)

死因
金史 巻十三(衛紹王本紀)
即位経路
金史 巻十三(衛紹王本紀)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

章宗(しょうそう)の叔父として後を託された金の皇帝で、モンゴルに大敗して中都(ちゅうと)を脅かされ、胡沙虎(こさこ)に殺された人物である。金史(きんし)の賛(さん)は、内に政が乱れ外に兵が敗れたと評する。

即位まで

世宗(せいそう)の第七子で、母は元妃(げんぴ)李氏(りし)である。柔弱で知謀に乏しかったため、宗室(そうしつ)を疑う章宗(しょうそう)にかえって愛された。跡継ぎのいない章宗(しょうそう)は叔父や兄弟の中で衛王(えいおう)だけを立てたいと考え、1208年に章宗(しょうそう)が危篤になると、章宗(しょうそう)の元妃(げんぴ)李氏(りし)らが策を定め、遺詔(いしょう)によって柩(ひつぎ)の前で即位した。

治世と最期

1209年には章宗(しょうそう)の元妃(げんぴ)李氏(りし)らを殺した。1211年にチンギス・カンが攻めてくると講和を求めたが、金軍は会河堡(かいかほ)で大敗し、居庸関(きょようかん)を失って中都(ちゅうと)は戒厳となった。完顔(かんがん)承裕(しょうゆう)伝は、野狐嶺(やこれい)から宣平(せんぺい)へ退いて夜に南へ向かった翌日に会河川(かいかせん)で大潰したと記し、金の滅亡がこの一戦で決まったという識者の言を引く。元史(げんし)の太祖(たいそ)紀(き)は、野狐嶺(やこれい)の戦いを会河川(かいかせん)より半年前に置く。西京を棄てて逃げ帰った胡沙虎(こさこ)を、衛紹王(えいしょうおう)は右副元帥(ゆうふくげんすい)に任じた。1213年、胡沙虎(こさこ)は詔を偽って兵を挙げ、宮中に入って監国都元帥(かんこくとげんすい)を名乗り、衛紹王(えいしょうおう)を旧邸に閉じ込めて宦官(かんがん)に殺させた。宣宗(せんそう)の即位後に東海郡侯(とうかいぐんこう)へ落とされ、1216年に衛王(えいおう)に戻されて紹と諡(おくりな)された。賛(さん)は、殺されたことで記録が失われたとも述べる。

在位中の出来事(8件)

改元1209年元号を「大安」とする
大赦1209年大安元年正月壬戌、改元と同日に大赦。
大赦1209年大安元年三月甲辰、道陵(章宗陵)の造営完了(礼成)を機に大赦。
立后1209年元妃徒単氏を皇后に冊立。
改元1212年元号を「崇慶」とする
改元1213年6月元号を「至寧」とする
被反乱1213年6月咸平路契丹部人の蜂起
被反乱1213年9月胡沙虎(紇石烈執中)のクーデター・弑逆

金の歴代皇帝

10名の一覧

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