
金第5代分裂期の王朝
世宗完顔雍
在位 1161年10月27日〜1189年1月20日(27年92日)
女真名烏禄
世宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 金史 巻八(世宗本紀下)
- 即位経路
- 金史 巻六十四(后妃伝下・貞懿皇后李氏伝)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
完顔雍は太祖の孫、睿宗の子で、本名は烏禄という。東京留守だった1161年に遼陽で即位して大定と改元し、その後に海陵が弑された。
即位まで
金史は、完顔雍の母を貞懿皇后李氏と記す。1161年、海陵の南伐のために契丹の人丁が徴兵され、部人が反乱を起こした。副留守の高存福は、娘が海陵の後宮にいて、海陵の命で完顔雍の動静を探っていた。完顔雍は官属を清安寺に召し、高存福らを座上で捕らえた。南征万戸の完顔福寿らが兵を率いて完顔雍に帰属すると、官属と諸軍が勧進し、完顔雍は長く固辞したのち、宣政殿で皇帝に即位した。翌日に大赦して大定と改元した。海陵本紀と世宗本紀は、完顔雍の即位が先で、完顔元宜らが海陵を揚州で弑したのはその後と記す。
治世と最期
1162年、完顔雍は廃帝の海陵を海陵郡王に降し、のちには庶人に追貶する詔を出した。同じ年、契丹の窩斡が捕らえられ、余衆は平定された。1165年、宋の使者が国書を持参し、侄宋皇帝と名乗って、叔大金皇帝に奉書した。歳幣は二十万であった。1170年、夏の任得敬が主の李仁孝を脅して国を中分するよう上表させたが、完顔雍は、彼は権臣に脅されているのだと言って許さず、貢物も却けた。1189年、完顔雍は福安殿で崩じた。金史は病名も経過も記さない。史臣の賛は、完顔雍を小尭舜と称されたと評する。
在位中の出来事(10件)
改元1161年10月28日元号を「大定」とする
大赦1161年10月28日正隆六年(元年)十月丁未、即位翌日(丙午即位)に大赦を実施、同日に大定へ改元。
被反乱1161年11月〜1162年10月契丹諸部(移剌窝斡)の乱
大赦1162年大定二年十月戊子、父・睿宗を景陵に葬るのに際し大赦。
被反乱1163年東京僧法通の妖術による民衆煽動
大赦1167年大定七年正月癸丑、衮冕を服し大安殿にて尊号册宝礼を受けたのに伴い大赦。
大赦1171年大定十一年十一月丁亥、圜丘における祭祀(有事于圜丘)に伴い大赦。
被反乱1173年洛陽県賊の盧氏県襲撃事件
大赦1179年大定十九年十一月壬戌、亡妻・昭德皇后(乌林荅氏)の改葬に伴い大赦。
被反乱1186年乌底改の叛乱