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世宗の肖像

金(きん)第5代分裂期の王朝

世宗(せいそう)完顔(ワンヤン)雍(よう)

在位 1161年10月27日〜1189年1月20日(27年92日)

女真名烏禄(ウル)

世宗の人物データ

生年
1123年
在位
  • 1161年10月27日〜1189年1月20日
在位 27年92日39歳で即位(数え年)・長さは365名中31位
没年
1189年1月20日67歳(数え年)267名中長寿順21位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立
先代
次代
  • 章宗金章宗は世宗の孫

出典(死因・即位経路)

死因
金史 巻八(世宗本紀下)
即位経路
金史 巻六十四(后妃伝下・貞懿皇后李氏伝)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

完顔(ワンヤン)雍(よう)は太祖(たいそ)の孫、睿宗(えいそう)の子で、本名は烏禄(ウル)という。東京留守(とうけいりゅうしゅ)だった1161年に遼陽(りょうよう)で即位して大定(たいてい)と改元(かいげん)し、その後に海陵(かいりょう)が弑(しい)された。

即位まで

金史(きんし)は、完顔(ワンヤン)雍(よう)の母を貞懿皇后(ていいこうごう)李氏(りし)と記す。1161年、海陵(かいりょう)の南伐(なんばつ)のために契丹(きったん)の人丁(じんてい)が徴兵され、部人(ぶじん)が反乱を起こした。副留守(ふくりゅうしゅ)の高存福(そんぷく)は、娘が海陵(かいりょう)の後宮にいて、海陵(かいりょう)の命で完顔(ワンヤン)雍(よう)の動静を探っていた。完顔(ワンヤン)雍(よう)は官属(かんぞく)を清安寺(せいあんじ)に召し、高存福(そんぷく)らを座上で捕らえた。南征万戸(なんせいばんこ)の完顔(かんがん)福寿(ふくじゅ)らが兵を率いて完顔(ワンヤン)雍(よう)に帰属すると、官属(かんぞく)と諸軍が勧進し、完顔(ワンヤン)雍(よう)は長く固辞したのち、宣政殿(せんせいでん)で皇帝に即位した。翌日に大赦して大定(たいてい)と改元(かいげん)した。海陵(かいりょう)本紀(ほんぎ)と世宗本紀(せいそうほんぎ)は、完顔(ワンヤン)雍(よう)の即位が先で、完顔(かんがん)元宜(げんぎ)らが海陵(かいりょう)を揚州(ようしゅう)で弑(しい)したのはその後と記す。

治世と最期

1162年、完顔(ワンヤン)雍(よう)は廃帝(はいてい)の海陵(かいりょう)を海陵郡王(かいりょうぐんおう)に降し、のちには庶人(しょじん)に追貶(ついへん)する詔を出した。同じ年、契丹(きったん)の窩斡(かあつ)が捕らえられ、余衆は平定された。1165年、宋(そう)の使者が国書を持参し、侄(てつ)宋(そう)皇帝(こうてい)と名乗って、叔大金(だいきん)皇帝(こうてい)に奉書(ほうしょ)した。歳幣(さいへい)は二十万であった。1170年、夏の任得敬(とくけい)が主の李仁孝(りじんこう)を脅して国を中分するよう上表(じょうひょう)させたが、完顔(ワンヤン)雍(よう)は、彼は権臣に脅されているのだと言って許さず、貢物も却けた。1189年、完顔(ワンヤン)雍(よう)は福安殿(ふくあんでん)で崩じた。金史(きんし)は病名も経過も記さない。史臣(ししん)の賛(さん)は、完顔(ワンヤン)雍(よう)を小尭舜(しょうぎょうしゅん)と称されたと評する。

在位中の出来事(10件)

改元1161年10月28日元号を「大定」とする
大赦1161年10月28日正隆六年(元年)十月丁未、即位翌日(丙午即位)に大赦を実施、同日に大定へ改元。
被反乱1161年11月〜1162年10月契丹諸部(移剌窝斡)の乱
大赦1162年大定二年十月戊子、父・睿宗を景陵に葬るのに際し大赦。
被反乱1163年東京僧法通の妖術による民衆煽動
大赦1167年大定七年正月癸丑、衮冕を服し大安殿にて尊号册宝礼を受けたのに伴い大赦。
大赦1171年大定十一年十一月丁亥、圜丘における祭祀(有事于圜丘)に伴い大赦。
被反乱1173年洛陽県賊の盧氏県襲撃事件
大赦1179年大定十九年十一月壬戌、亡妻・昭德皇后(乌林荅氏)の改葬に伴い大赦。
被反乱1186年乌底改の叛乱

金の歴代皇帝

10名の一覧

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