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金(きん)第3代分裂期の王朝

熙宗(きそう)完顔(ワンヤン)亶(たん)

在位 1135年2月10日〜1150年1月9日(14年337日)

女真名合剌(ホラ)

熙宗の人物データ

生年
1119年8月14日
在位
  • 1135年2月10日〜1150年1月9日
在位 14年337日長さは365名中87位
没年
1150年1月9日31歳(数え年)267名中長寿順182位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
世襲
先代
次代

出典(死因・即位経路)

死因
金史 巻一百三十二(逆臣伝)
即位経路
金史 巻四(熙宗本紀)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

太祖(たいそ)の嫡孫(ちゃくそん)として金の位を継ぎ、宋(そう)と和議を結んで漢風の礼を取り入れたが、末年は酒に溺れて人を殺し、海陵王(かいりょうおう)(完顔(ワンヤン)亮(りょう))らに殺された皇帝である。本紀(ほんぎ)の賛(さん)は、末年は酒に溺れて妄りに殺し、人々が危ぶんだと評する。

即位まで

太祖(たいそ)の孫で、景宣皇帝(けいせんこうてい)宗峻(そうしゅん)の子である。1132年、宗翰(そうかん)・宗輔(そうほ)・完顔(かんがん)希尹(きいん)が宗幹(そうかん)と議って、太祖(たいそ)の嫡孫(ちゃくそん)を後継にするよう太宗(たいそう)に再三請い、太宗(たいそう)が従った。宗翰(そうかん)伝は、太宗(たいそう)にはもともとその意が無く、大臣の議を退けられなかったと記す。1135年、太宗(たいそう)が没した翌日に即位した。

治世と最期

1137年に尚書左丞(しょうしょさじょう)の高慶裔(けいえい)が罪により誅(ちゅう)され、本紀(ほんぎ)によれば翌月に宗翰(そうかん)も没した。宗翰(そうかん)伝は宗翰(そうかん)の死をその前年とし、大金国志(だいきんこくし)は高慶裔(けいえい)が殺されたのち宗翰(そうかん)が失勢して憤りのうちに没したとする。1138年に河南(かなん)の地を宋(そう)に与え、1139年には宗磐(そうばん)・宗雋(そうしゅん)、続いて撻懶(たつらん)を謀反として誅(ちゅう)した。1140年には河南(かなん)を再び取るよう命じ、同じ年に完顔(かんがん)希尹(きいん)を殺した。希尹(きいん)伝は讒言(ざんげん)によるとし、熙宗(きそう)はのちに無実を知って追贈(ついぞう)した。1141年に初めて袞冕(こんべん)を着て孔子廟(こうしびょう)を親祭(しんさい)し、以後は尚書や論語(ろんご)を夜まで読んだ。1142年、宋(そう)と歳幣(さいへい)と淮水(わいすい)を境とすることを約し、宋(そう)の康王(こうおう)を皇帝に冊封(さくほう)した。その前年から酒に溺れ、宰相が諫(いさ)めると酒を飲ませて明日には戒めると言い、また飲んだ。悼平皇后(とうへいこうごう)伝は、皇太子の死後に後継が立たず、皇后の裴満(はいまん)氏が政に干与したことが熙宗(きそう)を荒れさせたとする。1149年には胙王(そおう)とその弟を殺し、皇后の裴満(はいまん)氏らも殺した。1150年の初め、完顔(ワンヤン)亮(りょう)らが群臣の恐れに乗じて謀り、大興国(こうこく)が門を開けさせて忽土(こつど)らが熙宗(きそう)を殺し、完顔(ワンヤン)亮(りょう)も自ら刃を加えた。海陵(かいりょう)本紀(ほんぎ)は完顔(ワンヤン)亮(りょう)が自ら手を下したとは書かず、大金国志(だいきんこくし)は眠っていたところを諸王に斬られたという別の場面を記す。

在位中の出来事(8件)

被反乱1150年1月9日完顔亮(海陵王)による熙宗弑逆
改元日付不詳元号を「天眷」とする
改元日付不詳元号を「皇統」とする
大赦日付不詳
大赦日付不詳
大赦日付不詳
立后日付不詳
被反乱日付不詳呉十の乱

金の歴代皇帝

10名の一覧

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