金第3代分裂期の王朝
熙宗完顔亶
在位 1135年2月10日〜1150年1月9日(14年337日)
熙宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 金史 巻一百三十二(逆臣伝)
- 即位経路
- 金史 巻四(熙宗本紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
太祖の嫡孫として金の位を継ぎ、宋と和議を結んで漢風の礼を取り入れたが、末年は酒に溺れて人を殺し、海陵王(完顔亮)らに殺された皇帝である。本紀の賛は、末年は酒に溺れて妄りに殺し、人々が危ぶんだと評する。
即位まで
太祖の孫で、景宣皇帝宗峻の子である。1132年、宗翰・宗輔・完顔希尹が宗幹と議って、太祖の嫡孫を後継にするよう太宗に再三請い、太宗が従った。宗翰伝は、太宗にはもともとその意が無く、大臣の議を退けられなかったと記す。1135年、太宗が没した翌日に即位した。
治世と最期
1137年に尚書左丞の高慶裔が罪により誅され、本紀によれば翌月に宗翰も没した。宗翰伝は宗翰の死をその前年とし、大金国志は高慶裔が殺されたのち宗翰が失勢して憤りのうちに没したとする。1138年に河南の地を宋に与え、1139年には宗磐・宗雋、続いて撻懶を謀反として誅した。1140年には河南を再び取るよう命じ、同じ年に完顔希尹を殺した。希尹伝は讒言によるとし、熙宗はのちに無実を知って追贈した。1141年に初めて袞冕を着て孔子廟を親祭し、以後は尚書や論語を夜まで読んだ。1142年、宋と歳幣と淮水を境とすることを約し、宋の康王を皇帝に冊封した。その前年から酒に溺れ、宰相が諫めると酒を飲ませて明日には戒めると言い、また飲んだ。悼平皇后伝は、皇太子の死後に後継が立たず、皇后の裴満氏が政に干与したことが熙宗を荒れさせたとする。1149年には胙王とその弟を殺し、皇后の裴満氏らも殺した。1150年の初め、完顔亮らが群臣の恐れに乗じて謀り、大興国が門を開けさせて忽土らが熙宗を殺し、完顔亮も自ら刃を加えた。海陵本紀は完顔亮が自ら手を下したとは書かず、大金国志は眠っていたところを諸王に斬られたという別の場面を記す。