
元第9代統一王朝
英宗シデバラ
在位 1320年4月19日〜1323年9月4日(3年138日)
英宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 元史 巻二十八(英宗二)
- 即位経路
- 元史 巻二十四(仁宗一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
仁宗の跡を継いだ元の皇帝で、丞相の拝住とともに法令を整えたが、南坡で鉄失らに丞相とともに殺された。
即位まで
仁宗の嫡子で、母は弘吉剌氏の荘懿慈聖皇后であり、1303年に生まれた。仁宗が太子に立てようとすると、兄がいるとして辞退したが、仁宗の母の太后は許さず、1317年の初めに皇太子に立てられた。1320年に仁宗が没すると、その太后の命で鉄木迭児が右丞相となった。同じ年に大明殿で即位して大赦し、即位の詔は諸王や元勲がこぞって即位を勧めたと述べた。
治世と最期
即位の年に拝住を中書平章政事に、ついで左丞相に取り立てた。阿散らが廃立を謀ったと告げられると、祖母の太皇太后の名を持ち出されることを案じて、全員を誅させた。1321年、寿安山の寺の造営を諫めた監察御史のうち二人を殺し、二人を杖打って奴児干の地へ流した。1322年に鉄木迭児が死に、拝住が右丞相となって独りで政を任された。1323年には格例を定めて大元通制として天下に頒行し、助役法を行う詔を出した。同じ年、鉄木迭児の官爵を追奪してその碑を毀ち、父祖の碑も毀った。拝住伝によれば、これで鉄失らの一党が恐れ、晋王の也孫帖木児にひそかに逆謀を告げて、成れば帝に推すと約した。泰定帝紀は、晋王が使者を捕らえて上都へ変を告げる使いを出したが間に合わなかったとし、英宗紀にはこの話が無い。同じ年、上都から南へ戻る途中の南坡で、鉄失らが兵を外応にして拝住を殺し、英宗を行幄で殺した。本紀は鉄失と赤斤鉄木児が弑したとし、鉄失伝は鉄失が自ら寝所に入って手を下したとする。元史の論は、刑罰に果断だったので奸党が誅を恐れて大変を起こしたと結び、新元史の史臣はこれを退けて、逆党を身辺に置いた失刑によるとする。