
元第13代統一王朝
明宗コシラ
在位 1329年2月27日〜1329年8月30日(184日)
漢字音写和世㻋
明宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 元史 巻三十一(明宗)/巻四十(順帝三・後至元六年六月の詔)
- 即位経路
- 元史 巻三十一(明宗)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
明宗(コシラ)は武宗の長子である。1329年に漠北で即位したが、約半年後に暴崩した。
即位まで
元史は、武宗が仁宗を皇太子に立てたとき、位は次いで明宗に伝えるよう命じていたと記す。1316年、丞相の鉄木迭児が英宗を皇太子に立てることを議し、鉄木迭児と識烈門が明宗を両宮に讒言したため、明宗は周王に封じられて雲南へ出された。明宗は北辺の金山に至り、西北諸王が来附して、十余年のあいだ辺境は安らかだったと記される。1328年に泰定帝が崩じ、燕鉄木児が挙兵した。明宗は遠く沙漠にいたため、弟の懐王が先に即位して文宗となり、詔で、大兄の至るを待つと述べた。1329年、文宗の遣いの撒迪らが明宗に即位を勧め、明宗は和寧の北で即位した。
治世と最期
明宗は燕鉄木児を太師・中書右丞相とし、文宗を皇太子に立てた。王忽察都で皇太子と諸王・大臣を宴し、その四日後に暴崩した。元史の文宗紀は、明宗の后の命として燕鉄木児が宝を文宗に授けたと記し、毒の語は無い。後至元六年の順帝の詔は、文宗が明宗に恨みを飲ませて崩じさせたと述べる。燕鉄木児伝は、明宗の崩にあたり、燕鉄木児は実は逆謀に加わっていたと記す。元史の明宗紀の本文は暴崩とだけ記し、毒・鴆・弑の語で死因を説明していない。