
元第15代統一王朝
寧宗イリンジバル
在位 1332年10月23日〜1332年12月14日(52日)
漢字音写懿璘質班
寧宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 元史 巻三十七(寧宗)
- 即位経路
- 元史 巻三十七(寧宗)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
寧宗(イリンジバル)は明宗の第二子で、1332年に幼くして即位し、まもなく崩じた。
即位まで
元史は、イリンジバルの母を八不沙皇后と記し、兄の妥歓帖木児(のちの恵宗)が長子である。1332年に文宗が崩じ、文宗の皇后が末命を導き伝えて、位を明宗の子に伝えるとした。兄の妥歓帖木児は静江に出居しており、イリンジバルは文宗が可愛がったため京師に留められていた。そこで燕鉄木児が、帝を立てるよう請うた。元史の順帝紀は、燕鉄木児が文宗の子の燕帖古思を立てるよう請うたが、文宗の后は従わず、イリンジバルを立てさせたと記す。新元史は、文宗が妥歓帖木児を立てよと言い残したが、燕鉄木児が遺詔を秘して寧宗を立てたと記す。
治世と最期
即位の詔は、大都・上都・興和の三路の差税を三年免除するなどの減免を定めた。即位の前後、政務はすべて中宮に取り次いで裁断を仰ぐ形になっていた。中宮は文宗の皇后である。在位は、元史の日付から数えて約52日で、新元史は四十三日と記す。元史と新元史の該当部は、崩の死因を書いていない。廟号と諡号を上った時を、元史の寧宗紀は1338年、新元史は1337年とする。翌1333年、兄の妥歓帖木児が即位した。
在位中の出来事(2件)
大赦1332年10月23日
立后日付不詳答里也忒迷失皇后(弘吉剌氏)を皇后に冊立。