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仁宗の肖像

元(げん)第8代統一王朝

仁宗(じんそう)アユルバルワダ

在位 1311年4月7日〜1320年3月1日(8年331日)

漢字音写愛育黎抜力八達(アユルバルワダ)

仁宗の人物データ

生年
1285年4月9日
在位
  • 1311年4月7日〜1320年3月1日
在位 8年331日長さは365名中141位
没年
1320年3月1日36歳(数え年)267名中長寿順151位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 武宗元仁宗は武宗の弟
次代
  • 英宗元英宗は仁宗の子

出典(死因・即位経路)

死因
元史 巻二十六(仁宗三)
即位経路
元史 巻二十四(仁宗一)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

仁宗(じんそう)はアユルバルワダ(愛育黎抜力八達(アユルバルワダ))で、順宗(じゅんそう)の次子、武宗(ぶそう)の弟である。1311年に即位した。その前に、武宗(ぶそう)の崩ののち尚書省(しょうしょしょう)の丞相(じょうしょう)らが伏誅(ふくちゅう)していた。

即位まで

元史(げんし)は、仁宗(じんそう)の母を興聖太后(こうせいたいこう)と記す。1307年、成宗(せいそう)が崩じると、左丞相(じょうしょう)の阿忽台(あこつたい)らが皇后(こうごう)伯要真氏(はくようしんし)の称制(しょうせい)を図った。宰相の哈剌哈孫(はらはそん)答剌罕(たるかん)が仁宗(じんそう)に先んじるよう密かに告げ、仁宗(じんそう)は衛士を率いて入った。諸王が早く位に就くよう勧めたが、仁宗(じんそう)は、懐寧王(かいねいおう)は兄だから正位が宜しいと退け、武宗(ぶそう)を北辺から迎えさせた。武宗(ぶそう)が即位すると、仁宗(じんそう)を皇太子に立てた。元史(げんし)の武宗(ぶそう)紀(き)は、母弟の仁宗(じんそう)を皇太子と記し、皇太弟(こうたいてい)とは書かない。1311年に武宗(ぶそう)が崩じ、仁宗(じんそう)は大都(だいと)の大明殿(たいめいでん)で即位した。

治世と最期

武宗(ぶそう)の崩ののち、尚書省(しょうしょしょう)の丞相(じょうしょう)の脱虎脱(だつこだつ)・三宝奴(さんぽうど)らが伏誅(ふくちゅう)した。仁宗(じんそう)の即位はその後である。1313年に科挙(かきょ)を行う詔が下り、1315年には進士の会試(かいし)が行われた。1314年、仁宗(じんそう)は張驢(ろ)を江南(こうなん)の田粮(でんりょう)の経理に遣わした。1315年、蔡(さい)五九が寧化県(ねいかけん)を陥して王号(おうごう)を僭称(せんしょう)すると、台臣(だいしん)は、変の原因は経理の苛酷にあるとして停止を請い、仁宗(じんそう)は可とした。1317年、監察御史(かんさつぎょし)四十余人が鉄木迭児(てむでる)の奸貪(かんどん)不法を劾し、鉄木迭児(てむでる)は罷免された。1320年、仁宗(じんそう)は不豫(ふよ)となり、光天宮(こうてんきゅう)で崩じた。元史(げんし)は病名を記さない。本紀(ほんぎ)の末は、仁宗(じんそう)は慈孝(じこう)・恭倹で、遊猟も征伐も貨利も好まなかったと評する。

在位中の出来事(16件)

大赦1311年4月7日
改元1311年10月26日元号を「皇慶」とする
大赦1313年
立后1313年
被反乱1313年諸王春丹の反乱
改元1314年元号を「延祐」とする
大赦1314年
被反乱1315年蔡五九の乱(赣州・汀州)
被反乱1316年融州・宾州・柳州徭蛮の反乱
被反乱1317年〜1318年脱火赤の乱(諸王脱火赤による反乱)
残り6件を表示
被反乱1317年諸王不里牙敦の反乱
被反乱1318年西番(チベット辺境)の反乱
被反乱1318年播州南寧長官洛麽の反乱
被反乱1318年赣州雩都県里胥劉景周の反乱
被反乱1319年斡端(コータン)の反乱
被反乱1319年来安路総管岑世興の反乱

元の歴代皇帝

11名の一覧

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