
元第8代統一王朝
仁宗アユルバルワダ
在位 1311年4月7日〜1320年3月1日(8年331日)
漢字音写愛育黎抜力八達
仁宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 元史 巻二十六(仁宗三)
- 即位経路
- 元史 巻二十四(仁宗一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
仁宗はアユルバルワダ(愛育黎抜力八達)で、順宗の次子、武宗の弟である。1311年に即位した。その前に、武宗の崩ののち尚書省の丞相らが伏誅していた。
即位まで
元史は、仁宗の母を興聖太后と記す。1307年、成宗が崩じると、左丞相の阿忽台らが皇后伯要真氏の称制を図った。宰相の哈剌哈孫答剌罕が仁宗に先んじるよう密かに告げ、仁宗は衛士を率いて入った。諸王が早く位に就くよう勧めたが、仁宗は、懐寧王は兄だから正位が宜しいと退け、武宗を北辺から迎えさせた。武宗が即位すると、仁宗を皇太子に立てた。元史の武宗紀は、母弟の仁宗を皇太子と記し、皇太弟とは書かない。1311年に武宗が崩じ、仁宗は大都の大明殿で即位した。
治世と最期
武宗の崩ののち、尚書省の丞相の脱虎脱・三宝奴らが伏誅した。仁宗の即位はその後である。1313年に科挙を行う詔が下り、1315年には進士の会試が行われた。1314年、仁宗は張驢を江南の田粮の経理に遣わした。1315年、蔡五九が寧化県を陥して王号を僭称すると、台臣は、変の原因は経理の苛酷にあるとして停止を請い、仁宗は可とした。1317年、監察御史四十余人が鉄木迭児の奸貪不法を劾し、鉄木迭児は罷免された。1320年、仁宗は不豫となり、光天宮で崩じた。元史は病名を記さない。本紀の末は、仁宗は慈孝・恭倹で、遊猟も征伐も貨利も好まなかったと評する。
在位中の出来事(16件)
大赦1311年4月7日
改元1311年10月26日元号を「皇慶」とする
大赦1313年
立后1313年
被反乱1313年諸王春丹の反乱
改元1314年元号を「延祐」とする
大赦1314年
被反乱1315年蔡五九の乱(赣州・汀州)
被反乱1316年融州・宾州・柳州徭蛮の反乱
被反乱1317年〜1318年脱火赤の乱(諸王脱火赤による反乱)
残り6件を表示
被反乱1317年諸王不里牙敦の反乱
被反乱1318年西番(チベット辺境)の反乱
被反乱1318年播州南寧長官洛麽の反乱
被反乱1318年赣州雩都県里胥劉景周の反乱
被反乱1319年斡端(コータン)の反乱
被反乱1319年来安路総管岑世興の反乱