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正統帝の肖像

明(みん)第6・8代統一王朝

正統帝(せいとうてい)朱(しゅ)祁鎮(きちん)

在位 1435–1449年 / 1457–1464年(21年244日)

姓朱(しゅ)諱祁鎮(きちん)廟号英宗(えいそう)諡号睿皇帝(えいこうてい)元号正統(せいとう)・天順(てんじゅん)

正統帝の人物データ

生年
1427年
在位
  • 1度目1435年2月7日〜1449年9月22日
  • 復位1457年2月11日〜1464年2月23日
在位 21年244日9歳で即位(数え年)・長さは365名中52位
没年
1464年2月23日38歳(数え年)267名中長寿順144位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲のちに復位
先代
  • 宣徳帝明正統帝は宣徳帝の子
  • 景泰帝明復位による継承・正統帝は景泰帝の兄
次代

出典(死因・即位経路)

死因
明史 本紀第十二(英宗後紀)
即位経路
明史 本紀第十二(英宗後紀)/明史紀事本末 巻三十五(南宮復辟)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

土木の変でオイラトの捕虜となり、のちに奪門(だつもん)の変で位に返り咲いた明の皇帝である。最初の在位の元号が正統、復位してからの元号が天順(てんじゅん)である。

即位まで

宣徳帝(せんとくてい)の長子で、生後4か月で皇太子に立てられた。1435年に宣徳帝(せんとくてい)が没して即位し、遺詔(いしょう)により大事は皇太后に申し出て行うことになった。

治世と最期

即位の年に宦官(かんがん)の王振が司礼監(しれいかん)を掌り、1443年には上奏した侍講(じこう)の劉(りゅう)球が王振の指図で獄中で殺された。1449年、オイラトのエセンが大同に攻め込むと、吏部尚書(りぶしょうしょ)王直らの諫(いさ)めを聞かずに親征(しんせい)した。引き返す途中の土木で包囲されて軍は潰え、正統帝(せいとうてい)は捕らえられた。明史(みんし)はこれを北狩(ほくしゅ)と書き、捕囚の語を避けている。都では弟の郕王(せいおう)が即位して景泰帝(けいたいてい)となり、正統帝(せいとうてい)は太上皇(たいじょうこう)とされた。翌年に帰京したが、景泰帝(けいたいてい)は兄を南宮(なんぐう)に住まわせ、正統帝(せいとうてい)の子の皇太子を沂王(きおう)に落とした。1457年の明け方、石亨(こう)・徐有貞(ゆうてい)・曹吉祥(きっしょう)らが兵を率いて南宮(なんぐう)から正統帝(せいとうてい)を連れ出し、正統帝(せいとうてい)はその日の正午に奉天殿(ほうてんでん)で即位した。同じ日に兵部(へいぶ)尚書の于(う)謙を獄に下し、5日後に殺した。1464年に病で没し、遺詔(いしょう)で宮妃(きゅうひ)の殉葬(じゅんそう)をやめさせた。明史(みんし)の賛(さん)は、王振を最後まで思い続けたことを責め、殉葬(じゅんそう)の廃止は後世の手本になったと評している。

在位中の出来事(32件)

改元1435年2月元号を「正統」とする
大赦1435年2月
被反乱1436年広西蒙顾十六洞賊の乱
被反乱1438年4月〜1449年2月麓川の乱(思任发・思机发父子)
大赦1439年
被反乱1439年貴州計砂叛苗の乱
被反乱1439年〜1440年松潘祈命族叛番の乱
被反乱1440年師宗叛蛮の乱
大赦1441年
立后1442年
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大赦1443年
被反乱1445年慶遠叛蛮の乱
被反乱1446年広西瑶の乱
被反乱1448年広東瑶賊の乱
被反乱1448年8月〜1449年2月福建鄧茂七の乱
被反乱1448年11月〜1449年5月処州賊叶宗留の乱
被反乱1449年4月湖広貴州苗賊の乱
被反乱1449年6月靖州苗の乱
大赦1449年7月
親征1449年8月4日〜1449年9月1日瓦剌(オイラト、也先)
改元1457年2月元号を「天順」とする
大赦1457年2月
被反乱1457年4月銅仁彭藕洞苗の乱
大赦1457年8月
被反乱1457年11月田州叛蛮の乱
被反乱1459年泷水瑶の乱
被反乱1459年貴州苗の乱(方瑛討伐)
被反乱1460年〜1461年両広瑶僮の乱
大赦1461年
被反乱1461年曹欽の乱
被反乱1463年洪江叛苗の乱
被反乱1463年両広瑶賊の再燃(梧州陥落)

明の歴代皇帝

16名の一覧

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