
明第6・8代統一王朝
正統帝朱祁鎮
在位 1435–1449年 / 1457–1464年(21年244日)
姓朱諱祁鎮廟号英宗諡号睿皇帝元号正統・天順
正統帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 明史 本紀第十二(英宗後紀)
- 即位経路
- 明史 本紀第十二(英宗後紀)/明史紀事本末 巻三十五(南宮復辟)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
土木の変でオイラトの捕虜となり、のちに奪門の変で位に返り咲いた明の皇帝である。最初の在位の元号が正統、復位してからの元号が天順である。
即位まで
宣徳帝の長子で、生後4か月で皇太子に立てられた。1435年に宣徳帝が没して即位し、遺詔により大事は皇太后に申し出て行うことになった。
治世と最期
即位の年に宦官の王振が司礼監を掌り、1443年には上奏した侍講の劉球が王振の指図で獄中で殺された。1449年、オイラトのエセンが大同に攻め込むと、吏部尚書王直らの諫めを聞かずに親征した。引き返す途中の土木で包囲されて軍は潰え、正統帝は捕らえられた。明史はこれを北狩と書き、捕囚の語を避けている。都では弟の郕王が即位して景泰帝となり、正統帝は太上皇とされた。翌年に帰京したが、景泰帝は兄を南宮に住まわせ、正統帝の子の皇太子を沂王に落とした。1457年の明け方、石亨・徐有貞・曹吉祥らが兵を率いて南宮から正統帝を連れ出し、正統帝はその日の正午に奉天殿で即位した。同じ日に兵部尚書の于謙を獄に下し、5日後に殺した。1464年に病で没し、遺詔で宮妃の殉葬をやめさせた。明史の賛は、王振を最後まで思い続けたことを責め、殉葬の廃止は後世の手本になったと評している。
在位中の出来事(32件)
改元1435年2月元号を「正統」とする
大赦1435年2月
被反乱1436年広西蒙顾十六洞賊の乱
被反乱1438年4月〜1449年2月麓川の乱(思任发・思机发父子)
大赦1439年
被反乱1439年貴州計砂叛苗の乱
被反乱1439年〜1440年松潘祈命族叛番の乱
被反乱1440年師宗叛蛮の乱
大赦1441年
立后1442年
残り22件を表示
大赦1443年
被反乱1445年慶遠叛蛮の乱
被反乱1446年広西瑶の乱
被反乱1448年広東瑶賊の乱
被反乱1448年8月〜1449年2月福建鄧茂七の乱
被反乱1448年11月〜1449年5月処州賊叶宗留の乱
被反乱1449年4月湖広貴州苗賊の乱
被反乱1449年6月靖州苗の乱
大赦1449年7月
親征1449年8月4日〜1449年9月1日瓦剌(オイラト、也先)
改元1457年2月元号を「天順」とする
大赦1457年2月
被反乱1457年4月銅仁彭藕洞苗の乱
大赦1457年8月
被反乱1457年11月田州叛蛮の乱
被反乱1459年泷水瑶の乱
被反乱1459年貴州苗の乱(方瑛討伐)
被反乱1460年〜1461年両広瑶僮の乱
大赦1461年
被反乱1461年曹欽の乱
被反乱1463年洪江叛苗の乱
被反乱1463年両広瑶賊の再燃(梧州陥落)
明の歴代皇帝
16名の一覧- 第1代洪武帝1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年 / 1457–1464年病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1567年病死
- 第13代隆慶帝1567–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自尽