
清第7代統一王朝
嘉慶帝顒琰
在位 1796年2月9日〜1820年9月2日(24年211日)
姓愛新覚羅諱顒琰廟号仁宗諡号睿皇帝元号嘉慶
嘉慶帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 清史稿 本紀十六(仁宗本紀)
- 即位経路
- 清史稿 本紀十六(仁宗本紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
父の乾隆帝から生前に位を譲られ、父の死後に和珅を除いて教徒の反乱を鎮めた清の皇帝である。
即位まで
乾隆帝の第十五子で、1789年に嘉親王に封じられた。1795年に皇太子に立てられ、翌年の元日に乾隆帝が太和殿で玉璽を授けて即位させた。乾隆帝は太上皇帝となったあとも政治を執り続けた。
治世と最期
即位したその月に湖北で教徒が兵を挙げた。1799年に乾隆帝が没して自ら政治を執り始めると、すぐ大学士の和珅を獄に下し、同じ月のうちに死を賜った。遺詔は、親政の初めに四川・陝西・湖北の反乱がまだ収まっておらず、4年をかけて残党を除いたと振り返っている。1813年、嘉慶帝の留守中に林清の一派数十人が紫禁城へ押し入り、皇次子が鉄砲で賊を倒した。嘉慶帝はこれを漢・唐・宋・明にも無かったことだと恥じる詔を出した。1820年、木蘭の狩りに向かう途中で熱河の避暑山荘で病み、夕方に危篤となって、その夜に没した。病み始めた日を仁宗本紀は山荘に着いた翌日とし、実録と宣宗本紀は着いた当日とする。仁宗本紀は皇次子を皇太子に立てる詔が宣されたとだけ記し、宣宗本紀と実録は、危篤のなか大臣たちが箱を開け、1799年の自筆の書によって皇次子の旻寧が後継と示されたとする。旻寧は道光帝として即位した。清史稿にも実録にも雷に打たれて死んだという話は無く、どれも病んで危篤となり没したとだけ記す。
在位中の出来事(16件)
立后1796年2月嘉慶元年正月庚戌、喜塔拉氏を皇后に立てる(即位直後)。
被反乱1796年2月〜1804年10月川楚教匪・白蓮教起義
改元1796年2月9日元号を「嘉慶」とする
被反乱1797年貴州南笼仲苗夷起義
立后1801年嘉慶六年四月辛酉、鈕祜禄氏を皇后に冊立(のちの孝和睿皇后)。
被反乱1801年雲南青苗楊文泰起義
被反乱1802年安徽宿州盗匪
被反乱1802年〜1809年海盗蔡牽の乱
被反乱1806年陝西寧陝鎮新兵陳逢順の乱
被反乱1807年陝西瓦石坪新兵滋事
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被反乱1813年天理教(八卦教)李文成・林清起義(癸酉の変、紫禁城襲撃含む)
被反乱1815年四川中瞻対土司洛布七力の乱
被反乱日付不詳苗疆之役(石柳鄧・呉八月ら苗民反乱の残余)
被反乱日付不詳雲南倮夷起義
被反乱日付不詳雲南枲僳族恆乍纲起義
被反乱日付不詳雲南夷匪の乱