
清第10代統一王朝
同治帝載淳
在位 1861年11月11日〜1875年1月12日(13年65日)
姓愛新覚羅諱載淳廟号穆宗諡号毅皇帝元号同治
同治帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 清史稿 穆宗本紀二/万歳爺天花進薬用薬底簿(内務府档案)
- 即位経路
- 清史稿 穆宗本紀一
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
穆宗は同治帝で、名は載淳。文宗の長子で、母は孝欽顕皇后那拉氏である。1861年に幼くして即位し、両太后の垂簾聴政のもとで治世を送り、1875年に養心殿で崩じた。
即位まで
穆宗本紀は、病が重くなった文宗の命を、載垣・端華・景寿・粛順ら御前大臣と軍機大臣が宣べ伝え、載淳が皇太子に立てられたと記す。のち、勅旨を勝手に改め垂簾に強く反対したとして、載垣・端華・粛順の任が解かれ、爵職が奪われて逮問された。恭親王らは三人を大逆律で凌遅に擬したが、載垣・端華には自尽が賜られ、粛順は斬に処された。載淳は太和殿で皇帝位に即き、翌年を同治元年とする旨を頒詔して大赦した。年号は先に祺祥と定められ、即位の四日前に同治へ改められていた。その二十日余りのち、皇帝が養心殿に御し、慈安・慈禧の両太后が垂簾聴政を始めた。
治世と最期
本紀は、1864年に官軍が江寧を落とし、洪秀全が先に自尽して江南が平らいだと記す。1873年、慈安・慈禧の両太后が勉励の懿旨を下し、皇帝が親政した。同じ年に雲南で杜文秀が伏誅した報も載る。1874年、円明園の工事停止が命じられ、翌日に恭親王が召対の失儀を責められて郡王に降されたが、その翌日には懿旨で親王の世襲に戻された。同じ年の冬、皇帝は不予となり、李鴻藻に章奏を代わって閲させた。皇帝は疾が大漸となって養心殿で崩じた。本紀は病名を記さない。皇帝に子が無く、両太后が惇親王奕誴・恭親王奕訢・醇親王奕譞らを召し、醇親王の子を文宗の嗣として嗣皇帝に立てた。崩の日は、穆宗本紀が甲戌条の次に日付を付けずに置き、徳宗本紀は癸酉の条に置く。
在位中の出来事(12件)
改元1861年11月11日元号を「同治」とする
大赦1861年11月11日咸丰十一年十月甲子,上御太和殿即皇帝位,受朝。
被反乱1862年〜1865年台湾戴潮春の乱
被反乱1862年〜1873年陝甘回変
被反乱1863年苗沛霖の乱
被反乱1864年新疆回変(庫車・烏魯木斉・伊犁・喀什噶爾等の蜂起、後にヤクブ・ベクのゼッド・シャール国建国)
立后1872年同治十一年九月乙未(九月十四日)、冊立皇后阿魯特氏。
被反乱日付不詳太平天国(南京政権本隊及び李世賢・汪海洋等残部)
被反乱日付不詳石達開(太平天国分派・独立転戦)
被反乱日付不詳捻軍(東捻・西捻)
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被反乱日付不詳雲南回変(杜文秀政権)
被反乱日付不詳貴州苗変(咸同貴州各族人民大起義)