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永楽帝の肖像

明(みん)第3代統一王朝

永楽帝(えいらくてい)朱(しゅ)棣(てい)

在位 1402年7月17日〜1424年8月12日(22年32日)

姓朱(しゅ)諱棣(てい)廟号成祖(せいそ)諡号文皇帝(ぶんこうてい)元号永楽(えいらく)

永楽帝の人物データ

生年
1360年
在位
  • 1402年7月17日〜1424年8月12日
在位 22年32日43歳で即位(数え年)・長さは365名中51位
没年
1424年8月12日65歳(数え年)267名中長寿順24位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
簒奪
先代
次代
目立つ記録
  • 親征5回(109名中10位タイ)
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
明史 本紀第七(成祖三)
即位経路
明史 本紀第五・第六(成祖一・二)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

燕王(えんおう)から挙兵して甥(おい)の建文帝(けんぶんてい)の位を奪い、北京へ都を移し、自らモンゴルへ5度出兵した明の皇帝である。明史(みんし)の賛(さん)は功業を称えつつ、建文(けんぶん)の年号を除き去った際の倒行逆施(とうこうぎゃくし)は、恥ずべき徳として覆い隠せないとする。

即位まで

太祖(たいそ)の第四子で、1370年に燕王(えんおう)に封じられ、1380年に北平(ほくへい)へ赴いた。太祖(たいそ)の死後、建文帝(けんぶんてい)が諸王の削藩(さくはん)を進めると、身の危険を感じて狂を装い病と称した。1399年、謝貴・張昺(へい)を殺して北平(ほくへい)の九門(きゅうもん)を奪い、斉泰・黄子澄(しちょう)を奸臣(かんしん)として兵を挙げ、その軍を靖難(せいなん)と称した。1402年に金川門(きんせんもん)が開かれて都が落ちると奉天殿(ほうてんでん)で即位し、斉泰・黄子澄(しちょう)・方孝孺(こうじゅ)を殺してその一族を滅ぼした。成祖本紀(せいそほんぎ)は建文皇帝(けんぶんこうてい)を葬ったとだけ記すが、同じ明史(みんし)の恭閔帝(びんてい)本紀(ほんぎ)は宮中の火で行方が知れなくなったとし、地下道から逃れたという説も併せて書く。

治世と最期

鄭(てい)和伝によれば、1405年に鄭(てい)和らを西洋へ遣わしたのは、恵帝(けいてい)が海外に逃れたことを疑ってその足取りを追い、あわせて国威を示すためだった。1403年に北平(ほくへい)を北京と改め、1420年には北京を京師とすることを布告した。1410年の親征(しんせい)では斡難河(あつなんが)で本雅失里(ほんがしつり)を大破し、続いて阿魯台(あるたい)を破った。1414年には瓦剌(おいらと)の馬哈木(ばはぼく)を忽蘭忽失温(こつらんこつしつおん)で破った。1422年の親征(しんせい)では阿魯台(あるたい)が逃れたため、引き返す途中で兀良哈(おらんけ)を自ら破った。1423年は敵が離散していて決戦にならず、1424年には答蘭納木児河(とうらんのうぼくじが)まで進んだが敵を見ずに引き返した。その帰途に蒼崖戍(そうがいじゅ)で病み、榆木川(ゆぼくせん)で皇太子に位を伝える遺詔(いしょう)を残して没した。軍が外にあったため喪は伏せられ、錫(すず)を溶かして棺を作り、平常どおり食膳を上げながら帰還した。廟号(びょうごう)ははじめ太宗(たいそう)で、1538年に成祖(せいそ)と改められた。

在位中の出来事(19件)

改元1402年8月元号を「永楽」とする
立后1402年12月
被反乱1403年柳州山賊の乱
被反乱1407年潯柳蛮の乱
被反乱1408年〜1409年簡定の乱(交阯反乱)
被反乱1409年〜1414年陳季擴の乱(交阯反乱)
親征1410年韃靼(本雅失里・阿魯台)
被反乱1410年哈剌馬牙の乱(粛州衛反乱)
被反乱1413年〜1414年思州・靖州苗の乱
親征1414年瓦剌(オイラト、馬哈木)
残り9件を表示
被反乱1415年広西蛮の乱
被反乱1418年黎利の乱(交阯反乱)
被反乱1420年唐賽児の乱(山東反乱)
大赦1421年
遷都1421年南京(応天府) → 北京(順天府)
親征1422年韃靼(阿魯台)
被反乱1422年柳州蛮の乱(再発)
親征1423年韃靼(阿魯台)
親征1424年4月〜1424年8月韃靼(阿魯台)

明の歴代皇帝

16名の一覧

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