
明第3代統一王朝
永楽帝朱棣
在位 1402年7月17日〜1424年8月12日(22年32日)
永楽帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 明史 本紀第七(成祖三)
- 即位経路
- 明史 本紀第五・第六(成祖一・二)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
燕王から挙兵して甥の建文帝の位を奪い、北京へ都を移し、自らモンゴルへ5度出兵した明の皇帝である。明史の賛は功業を称えつつ、建文の年号を除き去った際の倒行逆施は、恥ずべき徳として覆い隠せないとする。
即位まで
太祖の第四子で、1370年に燕王に封じられ、1380年に北平へ赴いた。太祖の死後、建文帝が諸王の削藩を進めると、身の危険を感じて狂を装い病と称した。1399年、謝貴・張昺を殺して北平の九門を奪い、斉泰・黄子澄を奸臣として兵を挙げ、その軍を靖難と称した。1402年に金川門が開かれて都が落ちると奉天殿で即位し、斉泰・黄子澄・方孝孺を殺してその一族を滅ぼした。成祖本紀は建文皇帝を葬ったとだけ記すが、同じ明史の恭閔帝本紀は宮中の火で行方が知れなくなったとし、地下道から逃れたという説も併せて書く。
治世と最期
鄭和伝によれば、1405年に鄭和らを西洋へ遣わしたのは、恵帝が海外に逃れたことを疑ってその足取りを追い、あわせて国威を示すためだった。1403年に北平を北京と改め、1420年には北京を京師とすることを布告した。1410年の親征では斡難河で本雅失里を大破し、続いて阿魯台を破った。1414年には瓦剌の馬哈木を忽蘭忽失温で破った。1422年の親征では阿魯台が逃れたため、引き返す途中で兀良哈を自ら破った。1423年は敵が離散していて決戦にならず、1424年には答蘭納木児河まで進んだが敵を見ずに引き返した。その帰途に蒼崖戍で病み、榆木川で皇太子に位を伝える遺詔を残して没した。軍が外にあったため喪は伏せられ、錫を溶かして棺を作り、平常どおり食膳を上げながら帰還した。廟号ははじめ太宗で、1538年に成祖と改められた。
在位中の出来事(19件)
残り9件を表示
明の歴代皇帝
16名の一覧- 第1代洪武帝1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年 / 1457–1464年病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1567年病死
- 第13代隆慶帝1567–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自尽