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建文帝の肖像

明(みん)第2代統一王朝

建文帝(けんぶんてい)朱(しゅ)允炆(いんぶん)

在位 1398年6月30日〜1402年7月13日(4年14日)

姓朱(しゅ)諱允炆(いんぶん)廟号恵宗(けいそう)諡号恭閔恵皇帝(きょうびんけいこうてい)元号建文(けんぶん)

建文帝の人物データ

生年
1377年
在位
  • 1398年6月30日〜1402年7月13日
在位 4年14日22歳で即位(数え年)・長さは365名中200位
没年
不詳
死因
諸説あり365名中15名
即位経路
世襲
先代
次代

出典(死因・即位経路)

死因
明史 本紀第四(恭閔帝)
即位経路
明史 本紀第四(恭閔帝)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

祖父の洪武帝(こうぶてい)から位を継いだが、叔父の燕王(えんおう)に南京(なんきん)を落とされ、行方の知れなくなった明の皇帝である。

即位まで

洪武帝(こうぶてい)の孫で、懿文太子(いぶんたいし)の第二子である。父の懿文太子(いぶんたいし)が没したあと、1392年に皇太孫(たいそん)に立てられた。1398年に洪武帝(こうぶてい)が没すると即位し、翌年を建文(けんぶん)元年とした。

治世と最期

即位するとすぐ斉泰と黄子澄(しちょう)を政治に加え、方孝孺(こうじゅ)を翰林院(かんりんいん)に招いた。1399年、北平(ほくへい)の燕王(えんおう)朱(しゅ)棣(てい)が兵を挙げた。1402年、燕王(えんおう)の軍が南京(なんきん)に迫ると谷王(こくおう)と李(り)景隆(けいりゅう)が金川門(きんせんもん)を開き、宮中に火が上がって建文帝(けんぶんてい)の行方は分からなくなった。明史(みんし)の本紀(ほんぎ)は、燕王(えんおう)が火の中から帝后の遺体を出させて葬ったと書くが、これが帝と后の二人を指すのか后だけなのかは文面から決まらない。本紀(ほんぎ)は続けて、地下道から逃れたという説を併せて記し、正統年間に建文帝(けんぶんてい)を名乗った僧が偽者と分かって獄死したことを書いたうえで、のちに雲南(うんなん)や四川(しせん)などで帝が僧として行き来した跡が伝わったとも書く。同じ明史(みんし)でも后妃伝(こうひでん)は馬皇后(こうごう)が火の中で没したとし、胡(こ)濙(えい)伝は、帝は火で没したが逃れたと言う者もいたので永楽帝(えいらくてい)が胡(こ)濙(えい)に行方を探らせたと記す。明太宗(たいそう)実録(じつろく)は、建文帝(けんぶんてい)が宮殿を閉ざして自ら火を放ったと書く。清の明史紀事本末(みんしきじほんまつ)は逃亡説に立ち、帝は鬼門(きもん)から逃れて正統年間に宮中へ迎えられ、天寿を全うしたとまで記す。明史(みんし)は、出亡後の事跡を詳しく記す致身録(ちしんろく)を晩出の附会として退けている。明の正徳(せいとく)・万暦(ばんれき)・崇禎(すうてい)の間に廟号(びょうごう)と諡号(しごう)を贈るよう求める声があったが実現せず、1736年に清の乾隆帝(けんりゅうてい)が恭閔恵皇帝(きょうびんけいこうてい)と追諡(ついし)した。

在位中の出来事(5件)

改元1398年6月30日元号を「建文」とする
大赦1398年6月30日
被反乱1399年8月〜1402年7月靖難の役(燕王棣の挙兵)
立后日付不詳
被反乱日付不詳麓川刀干孟の乱

明の歴代皇帝

16名の一覧

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