
南明第2代分裂期の王朝
隆武帝朱聿鍵
在位 1645年8月18日〜1646年10月6日(1年49日)
姓朱諱聿鍵幼名長寿廟号紹宗元号隆武
隆武帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 小腆紀年 隆武二年八月条(考証注)/小腆紀傳 巻三(隆武紀)/明季南略 巻十
- 即位経路
- 小腆紀傳 巻三(隆武紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
鳳陽の獄から出て福州で鄭氏に擁立され、1年あまりで清軍に追われ、汀州で捕らえられて命を落とした南明の皇帝である。
即位まで
明の太祖の九世の孫で、唐王の家に生まれた。1636年、都が危ういと聞いて兵を率いて上京しようとしたことを咎められ、庶人に落とされて鳳陽の高牆に閉じ込められた。南京の弘光政権が出した大赦で外に出たが、1645年に杭州へ着いたときには南京はすでに落ちていた。鄭鴻逵らに奉じられて福州で監国となり、その年のうちに即位して隆武と改元した。
治世と最期
兵権は鄭氏が握り、鄭鴻逵らは兵糧を待つと称して進まず、明史の唐王伝は、学問を好んだが何もなし得なかったと評する。親征に出て江西へ入ろうとしたが、鄭芝龍が民を使って道を塞がせ、延平に留まった。1646年、仙霞関を守れないと知って贛州へ向かい、書物を十数箱積んで延平を発った。最期は書によって違う。小腆紀傳と小腆紀年は、汀州に着いた翌朝に曾皇后とともに汀州府の役所で殺されたとし、小腆紀年は諸書が福州で斬られたとするのを知ったうえで、台湾外紀の目撃談を採っている。明史の唐王伝と明季南略は、汀州で捕らえられたのち福州で死んだとする。清史稿の本紀は、汀州へ逃げた唐王を清の将が追って斬ったと書くが、名を聿釗としている。小腆紀傳の割注には、死んだのは身代わりで本人は五指山で僧になったという説も挙がるが、真偽は分からないとしている。のちに永暦帝が思文皇帝の号を贈り、1657年に紹宗襄皇帝と諡された。
在位中の出来事(8件)
改元1645年8月18日元号を「隆武」とする
大赦1645年8月18日
遷都1645年8月18日南京(弘光帝の都、明の陪都) → 福州(隆武帝、「福京」と改称)
被反乱1645年10月〜1646年3月靖江王朱亨嘉の桂林僭号事件
立后1645年10月2日
親征1646年1月〜1646年10月清(江西・湖南方面への親征、督師何腾蛟ら勤王軍との合流を企図)
被反乱1646年1月雲南土司沙定洲の乱
大赦1646年7月
南明の歴代皇帝
4名の一覧- 第1代弘光帝1644–1645年処刑
- 第2代隆武帝1645–1646年諸説あり
- 紹武帝1646–1647年自尽
- 第3代永暦帝1646–1662年処刑