本文へスキップ
隆武帝の肖像

南明(なんみん)第2代分裂期の王朝

隆武帝(りゅうぶてい)朱(しゅ)聿鍵(いつけん)

在位 1645年8月18日〜1646年10月6日(1年49日)

姓朱(しゅ)諱聿鍵(いつけん)幼名長寿(ちょうじゅ)廟号紹宗(しょうそう)元号隆武(りゅうぶ)

隆武帝の人物データ

生年
1602年5月24日
在位
  • 1645年8月18日〜1646年10月6日
在位 1年49日44歳で即位(数え年)・長さは365名中284位
没年
1646年10月6日45歳(数え年)267名中長寿順105位タイ
死因
諸説あり365名中15名
即位経路
推戴帝号を新たに称した
先代
  • 弘光帝南明隆武帝は弘光帝の同族(遠縁)
次代
  • 紹武帝南明紹武帝は隆武帝の弟
  • 永暦帝南明永暦帝は隆武帝の同族(遠縁)
目立つ記録
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
小腆紀年 隆武二年八月条(考証注)/小腆紀傳 巻三(隆武紀)/明季南略 巻十
即位経路
小腆紀傳 巻三(隆武紀)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

鳳陽(ほうよう)の獄から出て福州(ふくしゅう)で鄭氏(ていし)に擁立され、1年あまりで清軍に追われ、汀州(ていしゅう)で捕らえられて命を落とした南明(なんみん)の皇帝である。

即位まで

明の太祖(たいそ)の九世の孫で、唐王(とうおう)の家に生まれた。1636年、都が危ういと聞いて兵を率いて上京しようとしたことを咎(とが)められ、庶人(しょじん)に落とされて鳳陽(ほうよう)の高牆(こうしょう)に閉じ込められた。南京(なんきん)の弘光(こうこう)政権が出した大赦で外に出たが、1645年に杭州(こうしゅう)へ着いたときには南京(なんきん)はすでに落ちていた。鄭(てい)鴻逵(こうき)らに奉じられて福州(ふくしゅう)で監国(かんこく)となり、その年のうちに即位して隆武(りゅうぶ)と改元(かいげん)した。

治世と最期

兵権は鄭氏(ていし)が握り、鄭(てい)鴻逵(こうき)らは兵糧を待つと称して進まず、明史(みんし)の唐王(とうおう)伝は、学問を好んだが何もなし得なかったと評する。親征(しんせい)に出て江西(こうせい)へ入ろうとしたが、鄭(てい)芝龍(しりゅう)が民を使って道を塞がせ、延平(えんぺい)に留まった。1646年、仙霞関(せんかかん)を守れないと知って贛州(かんしゅう)へ向かい、書物を十数箱積んで延平(えんぺい)を発った。最期は書によって違う。小腆紀傳(しょうてんきでん)と小腆紀年(しょうてんきねん)は、汀州(ていしゅう)に着いた翌朝に曾皇后(そうこうごう)とともに汀州府(ていしゅうふ)の役所で殺されたとし、小腆紀年(しょうてんきねん)は諸書が福州(ふくしゅう)で斬られたとするのを知ったうえで、台湾外紀(たいわんがいき)の目撃談を採っている。明史(みんし)の唐王(とうおう)伝と明季南略(みんきなんりゃく)は、汀州(ていしゅう)で捕らえられたのち福州(ふくしゅう)で死んだとする。清史稿(しんしこう)の本紀(ほんぎ)は、汀州(ていしゅう)へ逃げた唐王(とうおう)を清の将が追って斬ったと書くが、名を聿釗(いつしょう)としている。小腆紀傳(しょうてんきでん)の割注(わりちゅう)には、死んだのは身代わりで本人は五指山(ごしざん)で僧になったという説も挙がるが、真偽は分からないとしている。のちに永暦帝(えいれきてい)が思文皇帝(ぶんこうてい)の号を贈り、1657年に紹宗(しょうそう)襄皇帝(じょうこうてい)と諡(おくりな)された。

在位中の出来事(8件)

改元1645年8月18日元号を「隆武」とする
大赦1645年8月18日
遷都1645年8月18日南京(弘光帝の都、明の陪都) → 福州(隆武帝、「福京」と改称)
被反乱1645年10月〜1646年3月靖江王朱亨嘉の桂林僭号事件
立后1645年10月2日
親征1646年1月〜1646年10月清(江西・湖南方面への親征、督師何腾蛟ら勤王軍との合流を企図)
被反乱1646年1月雲南土司沙定洲の乱
大赦1646年7月

南明の歴代皇帝

4名の一覧

即位経路が「推戴」の23名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。