南明分裂期の王朝
紹武帝朱聿𨮁
在位 1646年12月11日〜1647年1月20日(40日)
姓朱諱聿𨮁
紹武帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 小腆紀傳 巻三(隆武紀・附紹武)
- 即位経路
- 小腆紀傳 巻三(隆武紀・附紹武)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
兄の隆武帝が敗れたのち広州で帝に立てられ、永暦帝と争ううちに清軍に城を落とされて死んだ南明の皇帝である。
即位まで
隆武帝の第四弟で、隆武帝の改元のときに唐王に封じられた。1646年に福建が敗れると、海路で広州に逃れた。このとき両広総督の丁魁楚はすでに永暦帝を肇慶で監国に奉じており、蘇観生は共同での擁立を拒まれて広州へ戻った。梁朝鍾らが兄が終われば弟が継ぐと唱え、蘇観生らが紹武帝を監国に奉じ、数日後に帝に立てて紹武と号した。明史と小腆紀伝の蘇観生伝は、擁立の日をこれと別の日に記す。これを聞いた丁魁楚も、即位しなければ人心を抑えられないとして、永暦帝を即位させた。
治世と最期
永暦帝が諭止の使者を送ると、言葉が不遜だとして紹武帝が殺したと小腆紀伝は記し、明史は殺したのを蘇観生とする。永暦の軍に三水で敗れたものの、1647年の初めには三山口で永暦軍を大破した。そのあいだに清に降った李成棟が広東に入り、広州に偽りの平安を報じたので、蘇観生は信じて備えなかった。同じころ、紹武帝が射礼を観ているところに清軍が迫り、城は落ちた。小腆紀伝によれば、服を替えて垣を越え、臣下の王応華の家に隠れたが捕らえられ、食を拒んで、先人に地下で合わせる顔がないと言って首をくくった。明史の蘇観生伝も縊死とするが、清史稿の世祖紀は清軍が斬ったとし、博洛伝は撃ち殺したとする。このサイトの死因が自尽となっているのは、小腆紀伝の記述による。
在位中の出来事(1件)
改元1646年12月11日元号を「紹武」とする
南明の歴代皇帝
4名の一覧- 第1代弘光帝1644–1645年処刑
- 第2代隆武帝1645–1646年諸説あり
- 紹武帝1646–1647年自尽
- 第3代永暦帝1646–1662年処刑