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南明(なんみん)第3代分裂期の王朝

永暦帝(えいれきてい)朱(しゅ)由榔(ゆうろう)

在位 1646年12月24日〜1662年1月22日(15年33日)

姓朱(しゅ)諱由榔(ゆうろう)廟号昭宗(しょうそう)元号永暦(えいれき)

永暦帝の人物データ

生年
1623年11月1日
在位
  • 1646年12月24日〜1662年1月22日
在位 15年33日24歳で即位(数え年)・長さは365名中86位
没年
1662年6月1日40歳(数え年)267名中長寿順130位タイ
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
推戴帝号を新たに称した
先代
  • 隆武帝南明永暦帝は隆武帝の同族(遠縁)
次代
—
目立つ記録
  • 遷都2回(42名中2位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
小腆紀傳 巻六(永暦紀下)
即位経路
小腆紀傳 巻四(永暦紀上)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

南明(なんみん)の最後の皇帝で、清軍に追われて広西(こうせい)・貴州(きしゅう)・雲南(うんなん)と移り、緬甸(めんでん)から引き渡されて呉三桂(ごさんけい)に殺された人物である。

即位まで

万暦帝(ばんれきてい)の孫で、桂端王(けいたんおう)の末子にあたり、1636年に永明(えいめい)王に封じられた。1643年に張献忠(ちょうけんちゅう)が衡州(こうしゅう)を陥すと捕らえられたが、焦璉(れん)が城をよじ登って枷(かせ)を壊し、背負って河を渡って救い出した。1646年に隆武帝(りゅうぶてい)が捕らえられると、丁魁楚(かいそ)・瞿(く)式耜(しきし)らに推されて肇慶(ちょうけい)で監国(かんこく)となった。このとき嫡母(ちゃくぼ)の王氏(おうし)は、わが子には堪えられないので他の人を選んでほしいと言ったと明史(みんし)は記す。広州(こうしゅう)で唐王(とうおう)が皇帝に立てられたため、同じ年のうちに肇慶(ちょうけい)で即位し、翌年を永暦(えいれき)元年とした。

治世と最期

1647年には劉(りゅう)承胤(しょういん)に武岡(ぶこう)へ連れ去られて政事を握られ、1648年に清から寝返った李(り)成棟(せいとう)に迎えられて肇慶(ちょうけい)へ戻った。1650年に桂林(けいりん)が落ちて瞿(く)式耜(しきし)が死ぬと潯州(じんしゅう)へ逃れた。1652年からは孫可望(かぼう)の迎えで安龍府(あんりゅうふ)に入ったが、葦(あし)の小屋に住み、孫可望(かぼう)の守将に侮られた。1656年に李(り)定国(ていこく)に奉じられて雲南(うんなん)へ移り、1659年には緬甸(めんでん)へ入った。1661年、緬人(めんじん)は従臣を誘い出して沐(もく)天波(てんぱ)ら42人を殺した。1662年の初め、呉三桂(ごさんけい)の軍が迫ると、天地の間に自分一人を容れないのかと責める書を送った。同じ年、緬人(めんじん)に担ぎ出されて呉三桂(ごさんけい)の前鋒(ぜんぽう)に引き渡され、雲南(うんなん)へ連れ戻されて太子とともに絞め殺された。小腆紀伝(しょうてんきでん)は市で弓弦によって絞めたとするが、吳(ご)三桂(さんけい)考は篦子坡(へいしは)で帛(はく)を用いたとして日と場所も違え、明史(みんし)は死に方を書かない。

在位中の出来事(11件)

改元1646年12月24日元号を「永暦」とする
大赦1646年12月24日皇帝即位の当日に発布。
立后1646年12月24日皇帝即位の当日、王妃を皇后に正式冊立。
被反乱1647年〜1648年劉承胤の専権・皇帝拉致
大赦1648年永暦二年(清順治五年・戊子)四月(明暦では閏三月)丙寅朔、元子慈烜(後の皇太子)誕生・立太子に際して発布。
被反乱1650年〜1651年陳邦傅の反乱(藤江従官殺害・焦琏誘殺)
被反乱1652年〜1657年孫可望の専権・雲南侵攻(1652〜1657)
遷都1652年南寧 → 安龍(貴州、安龍府)
遷都1656年安龍(安龍府) → 昆明(雲南府、「滇都」と改称)
大赦1657年永暦十一年(清順治十四年・丁酉)四月癸酉朔、弘光帝・隆武帝・皇考端皇帝らへの諡号追贈に際して発布。
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被反乱1658年永昌の反乱

南明の歴代皇帝

4名の一覧

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