
南明第1代分裂期の王朝
弘光帝朱由崧
在位 1644年6月19日〜1645年6月15日(361日)
弘光帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 小腆紀傳 巻一・巻二(弘光紀上下)/小腆紀年 順治三年五月条
- 即位経路
- 小腆紀傳 巻一(弘光紀上)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
安宗は弘光帝で、名は朱由崧。神宗の孫で、福恭王常洵の長子である。崇禎帝の死後に南京で擁立され、1644年に位に即いて弘光と改元した。翌年に配下の将に身柄を押さえられて清に降され、北へ送られた。
即位まで
母は鄒妃で、初め徳昌王に封ぜられ、のち世子に進んだ。1641年に李自成が河南を陥して福恭王が殺され、由崧は懐慶へ逃れた。1643年に福王を嗣封し、崇禎帝は自ら宮中の玉帯を選んで賜った。北京が陥ち凶報が南京に届くと、呂大器・張慎言・姜曰広は、由崧には不孝・虐下・不読書・貪・淫・酗酒などの七つの不可があるとして史可法に書を移し、潞王を推した。明史の馬士英伝は、諸大臣が潞王を立てようとしたが、馬士英が高傑・劉沢清・黄得功・劉良佐らと結んで兵を率い、福王を迎えると、諸大臣は敢えて言えなくなったと記す。明史は、福王が1644年に監国を称し、その十二日後に南京で位に就いて弘光と号したと記す。
治世と最期
1645年、左良玉が兵を挙げて反して武昌を焼き、清軍は揚州を陥して督師の史可法が死んだ。南京の城門が閉じられた夜、司礼監の韓贊周は親征を勧めたが、帝は聴かず、梨園の子弟と酣飲した。夜、内官数十人が馬で通済門から出て、韓贊周がこれに従った。劉良佐が追兵を引いて至ると黄得功は死に、その最期を小腆紀伝は自刎とし、明史は喉に矢を受けたのち自ら喉を刺したとする。田雄が帝の舟に入って帝を背負い、馬得功とともに降った。劉良佐が帝を南京へ連れ、帝は小輿で入城して清の豫王に叩頭した。豫王に、なぜ走ったのかと問われると、汗を流して俯き無言であった。帝は江寧県に拘され、のちに北へ送られた。小腆紀伝は、翌年に北京で殂したと記し、潞王伝は帝と潞王が同じく害に遇ったと記す。明史は、帝が北へ帰されたことまでで記述を止め、その後の死には触れない。小腆紀伝・明史・清史稿に、死の方式と日の記述は無い。
在位中の出来事(5件)
南明の歴代皇帝
4名の一覧- 第1代弘光帝1644–1645年処刑
- 第2代隆武帝1645–1646年諸説あり
- 紹武帝1646–1647年自尽
- 第3代永暦帝1646–1662年処刑