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弘光帝の肖像

南明(なんみん)第1代分裂期の王朝

弘光帝(こうこうてい)朱(しゅ)由崧(ゆうすう)

在位 1644年6月19日〜1645年6月15日(361日)

姓朱(しゅ)諱由崧(ゆうすう)廟号安宗(あんそう)元号弘光(こうこう)

弘光帝の人物データ

生年
1607年9月5日
在位
  • 1644年6月19日〜1645年6月15日
在位 361日38歳で即位(数え年)・長さは365名中294位
没年
1646年6月40歳(数え年)267名中長寿順130位タイ
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
推戴帝号を新たに称した
先代
  • 崇禎帝明弘光帝は崇禎帝の従兄弟
次代
  • 隆武帝南明隆武帝は弘光帝の同族(遠縁)

出典(死因・即位経路)

死因
小腆紀傳 巻一・巻二(弘光紀上下)/小腆紀年 順治三年五月条
即位経路
小腆紀傳 巻一(弘光紀上)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

安宗(あんそう)は弘光帝(こうこうてい)で、名は朱(しゅ)由崧(ゆうすう)。神宗(しんそう)の孫で、福恭王(きょうおう)常洵(じょうじゅん)の長子である。崇禎帝(すうていてい)の死後に南京(なんきん)で擁立され、1644年に位に即いて弘光(こうこう)と改元(かいげん)した。翌年に配下の将に身柄を押さえられて清に降され、北へ送られた。

即位まで

母は鄒(すう)妃で、初め徳昌王(とくしょうおう)に封ぜられ、のち世子に進んだ。1641年に李自成(りじせい)が河南(かなん)を陥して福恭王(きょうおう)が殺され、由崧(ゆうすう)は懐慶(かいけい)へ逃れた。1643年に福王(ふくおう)を嗣封(しほう)し、崇禎帝(すうていてい)は自ら宮中の玉帯(ぎょくたい)を選んで賜った。北京が陥ち凶報が南京(なんきん)に届くと、呂大器(たいき)・張慎言(しんげん)・姜(きょう)曰広(えつこう)は、由崧(ゆうすう)には不孝・虐下・不読書・貪・淫・酗酒(くしゅ)などの七つの不可があるとして史可法(かほう)に書を移し、潞王(ろおう)を推した。明史(みんし)の馬士英(しえい)伝は、諸大臣が潞王(ろおう)を立てようとしたが、馬士英(しえい)が高傑・劉(りゅう)沢清(たくせい)・黄得功(とくこう)・劉(りゅう)良佐(りょうさ)らと結んで兵を率い、福王(ふくおう)を迎えると、諸大臣は敢えて言えなくなったと記す。明史(みんし)は、福王(ふくおう)が1644年に監国(かんこく)を称し、その十二日後に南京(なんきん)で位に就いて弘光(こうこう)と号したと記す。

治世と最期

1645年、左良玉(りょうぎょく)が兵を挙げて反して武昌(ぶしょう)を焼き、清軍は揚州(ようしゅう)を陥して督師(とくし)の史可法(かほう)が死んだ。南京(なんきん)の城門が閉じられた夜、司礼監(しれいかん)の韓贊周(さんしゅう)は親征(しんせい)を勧めたが、帝は聴かず、梨園の子弟と酣飲(かんいん)した。夜、内官(ないかん)数十人が馬で通済門(つうさいもん)から出て、韓贊周(さんしゅう)がこれに従った。劉(りゅう)良佐(りょうさ)が追兵を引いて至ると黄得功(とくこう)は死に、その最期を小腆紀伝(しょうてんきでん)は自刎(じふん)とし、明史(みんし)は喉に矢を受けたのち自ら喉を刺したとする。田雄が帝の舟に入って帝を背負い、馬得功(とくこう)とともに降った。劉(りゅう)良佐(りょうさ)が帝を南京(なんきん)へ連れ、帝は小輿(しょうよ)で入城して清の豫王(よおう)に叩頭(こうとう)した。豫王(よおう)に、なぜ走ったのかと問われると、汗を流して俯(うつむ)き無言であった。帝は江寧県(こうねいけん)に拘され、のちに北へ送られた。小腆紀伝(しょうてんきでん)は、翌年に北京で殂(そ)したと記し、潞王(ろおう)伝は帝と潞王(ろおう)が同じく害に遇ったと記す。明史(みんし)は、帝が北へ帰されたことまでで記述を止め、その後の死には触れない。小腆紀伝(しょうてんきでん)・明史(みんし)・清史稿(しんしこう)に、死の方式と日の記述は無い。

在位中の出来事(5件)

被反乱1644年〜1645年許都残党の乱(東陽・金華一帯)
大赦1644年6月7日監国就任の告天礼直後に大赦。
改元1644年6月19日元号を「弘光」とする
大赦1644年6月19日皇帝即位・改元弘光と同日の詔で大赦。
被反乱1645年左良玉の東征(清君側を掲げた武力反乱)

南明の歴代皇帝

4名の一覧

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