
西晋第5代統一王朝
懐帝司馬熾
在位 307年1月11日〜311年7月13日(4年184日)
懐帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 帝紀第五 孝懷帝
- 即位経路
- 晉書 帝紀第五 孝懷帝
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
司馬熾は西晋の武帝の第二十五子で、兄の惠帝の皇太弟から即位した。311年に洛陽が劉曜・王弥に陥とされて平陽へ連れ去られ、313年にその地で殺された。
即位まで
305年に皇太弟に立てられたとき、もと皇太子の清河王司馬覃がいたため恐れて辞退しかけたが、典書令の修肅に勧められて受けた。307年に惠帝が崩ずると、惠帝の羊皇后は自分が太后になれないことを嫌って司馬覃を宮中に急がせたが、侍中の華混らが先に司馬熾を召して即位させた。同じ年に永嘉と改元し、東海王司馬越が輔政した。
治世と最期
310年、司馬越が檄で天下の兵を召したとき、司馬熾は今なら救えるが後では間に合わないと諸鎮へ伝えさせたが、来る者はいなかった。311年には苟晞に司馬越を討つ密詔を下したが、司馬越はその年のうちに死に、その柩を追った石勒が東郡で晋軍を破って、王衍ら十余万人が死んだ。飢えた洛陽から逃れようと徒歩で宮門を出たものの、盗賊に掠められて引き返した。同じ年に劉曜・王弥が洛陽に入り、長安へ逃れようとした司馬熾は追いつかれ、宮廟は焼かれて百官士庶三万余人が死んだ。資治通鑑はこのとき皇太子の司馬詮も劉曜に殺されたと記すが、晋書の懐帝紀にはその記事が無い。司馬熾は平陽に連れ去られて劉聡に会稽公とされたが、資治通鑑はまず平阿公とし、翌年会稽郡公に封じたと二段に分けて記す。晋書の劉聡載記によれば、劉聡は宴で晋の一族がなぜ骨肉で相争ったのかと問い、司馬熾は漢が天命を受けるための天意だと答えた。313年の大宴で劉聡は司馬熾に青衣を着せて酒を注がせ、侍中の庾珉が号泣したのを憎み、その後司馬熾は平陽で弑された。庾珉らが劉琨に呼応しようと謀ったために殺したとする点は劉聡載記・資治通鑑・魏書が一致するが、毒殺と手段まで書くのは載記だけで、本紀は弑されたとだけ記す。