
梁・南北朝第4代分裂期の王朝
元帝蕭繹
在位 552年12月13日〜555年1月7日(2年25日)
元帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 梁書/卷05 本紀第五 元帝;周書 蕭詧傳
- 即位経路
- 梁書/卷05 本紀第五 元帝
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
蕭繹は梁の武帝の第七子で、侯景を平定させたのち、552年に江陵で位に即いた。555年、西魏に江陵を攻め落とされて捕らえられ、殺された。
即位まで
蕭繹は508年に生まれた。549年に侯景が建康を陥れると、荊州刺史だった蕭繹は密詔を受けて大都督中外諸軍事・司徒承制とされた。551年、侯景が巴陵に攻め寄せると援軍を送って退け、王僧弁が追撃して勝ちを重ねた。簡文帝が崩じて即位を勧められても、侯景を項籍、蕭棟を殷の紂王にたとえて固辞した。552年、王僧弁らが侯景を平定してその首を江陵に届け、その年のうちに蕭繹は江陵で皇帝の位に即き、承聖と改元した。
治世と最期
即位に先立って、弟の武陵王蕭紀が蜀で帝を称し、大軍で長江を東へ下ってきた。周書によれば、蕭繹は西魏に救援を請い、さらに蜀を討つよう求めた。553年に蕭紀は捕らえられて殺され、南史は蕭繹が生かして還すなと密かに命じたと記すが、その留守に西魏は蜀を取った。資治通鑑によれば、蕭繹はいったん建康へ還る詔を下したが、胡僧祐らが建業の王気は尽きたと諫め、荒れた建康より栄える江陵に安んじていた蕭繹は結局江陵に留まった。554年、蕭繹が旧図による国境を求め北斉とも結んだため、宇文泰は于謹らの歩騎五万を江陵に送った。西魏軍の総攻撃に蕭繹は自ら督戦したが敗れ、内応で城門が開かれて捕らえられ、蕭詧の陣営へ送られた。落城の際、蕭繹は古今の図書を焼かせ、資治通鑑によれば、なぜ焼いたかと問われて、万巻の書を読んでなお今日があると答えた。焚書の記事は南史と資治通鑑にあり、梁書の本紀には無い。西魏は蕭繹を殺し、南史は蕭詧が傅准に刑を監させて土嚢で殺したと記す。