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元帝の肖像

梁(りょう)・南北朝(なんほくちょう)第4代分裂期の王朝

元帝(げんてい)蕭(しょう)繹(えき)

在位 552年12月13日〜555年1月7日(2年25日)

姓蕭(しょう)諱繹(えき)字世誠(せいせい)幼名七符(しちふ)廟号世祖(せいそ)別称孝元帝(こうげんてい)

元帝の人物データ

生年
508年9月16日
在位
  • 552年12月13日〜555年1月7日
在位 2年25日45歳で即位(数え年)・長さは365名中256位
没年
555年1月27日47歳(数え年)267名中長寿順92位タイ
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
擁立
先代
  • 簡文帝梁・南北朝元帝は簡文帝の弟
次代
  • 蕭淵明梁・南北朝蕭淵明は元帝の従兄弟
目立つ記録
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
梁書/卷05 本紀第五 元帝;周書 蕭詧傳
即位経路
梁書/卷05 本紀第五 元帝

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

蕭(しょう)繹(えき)は梁(りょう)の武帝(ぶてい)の第七子で、侯景(こうけい)を平定させたのち、552年に江陵(こうりょう)で位に即いた。555年、西魏(せいぎ)に江陵(こうりょう)を攻め落とされて捕らえられ、殺された。

即位まで

蕭(しょう)繹(えき)は508年に生まれた。549年に侯景(こうけい)が建康(けんこう)を陥れると、荊州(けいしゅう)刺史(しし)だった蕭(しょう)繹(えき)は密詔(みっしょう)を受けて大都督中外諸軍事(だいととくちゅうがいしょぐんじ)・司徒(しと)承制(しょうせい)とされた。551年、侯景(こうけい)が巴陵(はりょう)に攻め寄せると援軍を送って退け、王僧弁(おうそうべん)が追撃して勝ちを重ねた。簡文帝(かんぶんてい)が崩じて即位を勧められても、侯景(こうけい)を項籍、蕭棟(しょうとう)を殷(いん)の紂王(ちゅうおう)にたとえて固辞した。552年、王僧弁(おうそうべん)らが侯景(こうけい)を平定してその首を江陵(こうりょう)に届け、その年のうちに蕭(しょう)繹(えき)は江陵(こうりょう)で皇帝の位に即き、承聖(しょうせい)と改元(かいげん)した。

治世と最期

即位に先立って、弟の武陵王(ぶりょうおう)蕭紀(しょうき)が蜀(しょく)で帝を称し、大軍で長江(ちょうこう)を東へ下ってきた。周書(しゅうしょ)によれば、蕭(しょう)繹(えき)は西魏(せいぎ)に救援を請い、さらに蜀(しょく)を討つよう求めた。553年に蕭紀(しょうき)は捕らえられて殺され、南史(なんし)は蕭(しょう)繹(えき)が生かして還すなと密かに命じたと記すが、その留守に西魏(せいぎ)は蜀(しょく)を取った。資治通鑑(しじつがん)によれば、蕭(しょう)繹(えき)はいったん建康(けんこう)へ還る詔を下したが、胡(こ)僧祐(そうゆう)らが建業(けんぎょう)の王気(おうき)は尽きたと諫(いさ)め、荒れた建康(けんこう)より栄える江陵(こうりょう)に安んじていた蕭(しょう)繹(えき)は結局江陵(こうりょう)に留まった。554年、蕭(しょう)繹(えき)が旧図による国境を求め北斉(ほくせい)とも結んだため、宇文泰(うぶんたい)は于謹(うきん)らの歩騎(ほき)五万を江陵(こうりょう)に送った。西魏(せいぎ)軍の総攻撃に蕭(しょう)繹(えき)は自ら督戦したが敗れ、内応で城門が開かれて捕らえられ、蕭詧(しょうさつ)の陣営へ送られた。落城の際、蕭(しょう)繹(えき)は古今の図書を焼かせ、資治通鑑(しじつがん)によれば、なぜ焼いたかと問われて、万巻の書を読んでなお今日があると答えた。焚書(ふんしょ)の記事は南史(なんし)と資治通鑑(しじつがん)にあり、梁書(りょうしょ)の本紀(ほんぎ)には無い。西魏(せいぎ)は蕭(しょう)繹(えき)を殺し、南史(なんし)は蕭詧(しょうさつ)が傅(ふ)准に刑を監(かん)させて土嚢(どのう)で殺したと記す。

在位中の出来事(5件)

被反乱552年5月16日〜553年8月20日蕭紀の乱(益州政権による帝位簒奪の内乱)
被反乱552年11月〜553年7月陸納の乱(湘州反乱)
改元552年12月13日元号を「承聖」とする
遷都552年12月13日建康 → 江陵
親征555年1月7日西魏(宇文泰配下・柱国于謹らの軍、蕭詧も加勢)

梁・南北朝の歴代皇帝

9名の一覧

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