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梁(りょう)・南北朝(なんほくちょう)分裂期の王朝対立・僭称の皇帝

蕭荘(しょうそう)

在位 558年4月〜560年3月26日(1年360日)

姓蕭(しょう)諱荘(そう)別称永嘉王(えいかおう)

蕭荘の人物データ

生年
不詳
在位
  • 558年4月〜560年3月26日
在位 1年360日長さは365名中262位
没年
577年
死因
不詳365名中33名
即位経路
推戴対立・僭称の皇帝帝号を新たに称した
先代
—
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
北齊書 卷33
即位経路
北齊書 卷33

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

蕭荘(しょうそう)は梁(りょう)の元帝(げんてい)の孫で、武烈太子(ぶれつたいし)蕭方等(しょうほうとう)の子にあたり、558年、王琳(おうりん)に奉じられて郢州(えいしゅう)で帝位に即いた。560年に王琳(おうりん)が陳に敗れると北斉(ほくせい)へ逃れ、577年に北斉(ほくせい)が滅んだ日に鄴(ぎょう)で憤りのあまり死んだ。

即位まで

552年、即位した元帝(げんてい)は蕭荘(しょうそう)を永嘉王(えいかおう)に封じた。西魏(せいぎ)が江陵(こうりょう)を陥としたとき、幼い蕭荘(しょうそう)は民家に逃げ隠れ、のちに王琳(おうりん)に迎えられた。北斉(ほくせい)書と南史(なんし)の王琳(おうりん)伝は、王琳(おうりん)が蕭荘(しょうそう)を湘中(しょうちゅう)に迎えてから東へ送ったとし、南史(なんし)の方等(ほうとう)伝と資治通鑑(しじつがん)は建康(けんこう)へ送ったとする。敬帝(けいてい)が立つと蕭荘(しょうそう)は北斉(ほくせい)へ人質に出され、陳霸先(ちんはせん)と争う王琳(おうりん)は、蕭荘(しょうそう)を梁主(りょうしゅ)として送り込むよう北斉(ほくせい)に請うた。北斉(ほくせい)書の蕭(しょう)明伝によれば、北斉(ほくせい)の文宣帝(ぶんせんてい)が兵を遣わして蕭荘(しょうそう)を送り込み、蕭荘(しょうそう)は558年に郢州(えいしゅう)で帝位に即いて天啓(てんけい)と年号を立て、王琳(おうりん)が軍国を総べた。北斉(ほくせい)書の文宣帝(ぶんせんてい)紀(き)は、北斉(ほくせい)が蕭荘(しょうそう)を梁主(りょうしゅ)とする詔を翌559年の初めに置いていて、即位の順序が合わない。

治世と最期

資治通鑑(しじつがん)は、北斉(ほくせい)が北に長城を築き南に蕭荘(しょうそう)を助けたため、士馬(しば)の死者が数十万に及んだと記す。王琳(おうりん)は蕭荘(しょうそう)を奉じて濡須口(じゅしゅこう)に出て、北斉(ほくせい)の慕容(ぼよう)儼(げん)が声援した。560年、陳の侯瑱(こうてん)が梁山(りょうざん)で王琳(おうりん)を破り、王琳(おうりん)と蕭荘(しょうそう)は北斉(ほくせい)へ奔った。北斉(ほくせい)は蕭荘(しょうそう)を侯に封じ、のちには梁王(りょうおう)として梁(りょう)の復興を許したが、ついに果たされなかった。北斉(ほくせい)の後主(こうしゅ)が亡んだ日、蕭荘(しょうそう)は鄴(ぎょう)で憤りのあまり死んだ。

在位中の出来事(3件)

改元558年4月元号を「天啓」とする
親征558年4月〜560年3月陳(陳霸先・陳蒨政権。梁の正統帝位継承を主張して対抗)
被反乱558年4月〜560年3月陳による王琳・萧庄政権の討伐(梁山・博望・栅口の戦い)

梁・南北朝の歴代皇帝

9名の一覧

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