本文へスキップ

梁(りょう)・南北朝(なんほくちょう)分裂期の王朝対立・僭称の皇帝

蕭正徳(しょうせいとく)

在位 548年12月〜549年4月27日(147日)

姓蕭(しょう)諱正徳(せいとく)字公和(こうわ)別称臨賀王(りんがおう)

蕭正徳の人物データ

生年
不詳
在位
  • 548年12月〜549年4月27日
在位 147日長さは365名中328位
没年
549年8月8日
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
推戴対立・僭称の皇帝帝号を新たに称した
先代
—
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
資治通鑑 卷162 梁紀十八;梁書/卷55 臨賀王正德傳
即位経路
梁書/卷55 臨賀王正德傳;南史/卷80 賊臣傳

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

梁(りょう)の武帝(ぶてい)の甥(おい)で、皇太子になれなかった恨みから侯景(こうけい)を長江(ちょうこう)の向こうへ渡し、侯景(こうけい)に帝として立てられたが、台城(たいじょう)が落ちると降され、まもなく殺された。梁書(りょうしょ)の史臣(ししん)は、悖逆(はいぎゃく)猖狂(しょうきょう)の者で自ら滅びを招いたのは当然だと評する。

即位まで

臨川(りんせん)靖恵王(せいけいおう)蕭宏(しょうこう)の第三子で、武帝(ぶてい)に男子がいなかったころ養子とされた。武帝(ぶてい)の即位後に昭明太子(しょうめいたいし)が立てられると、西豊侯(せいほうこう)に封じられただけで、恨みを抱いた。のちに北魏(ほくぎ)へ逃げたが、蕭(しょう)宝寅(ほういん)に殺すべきだと上表(じょうひょう)されて冷遇され、また梁(りょう)へ逃げ帰った。出奔(しゅっぽん)の年を梁書(りょうしょ)は525年とし、南史(なんし)と資治通鑑(しじつがん)は522年とする。武帝(ぶてい)は罪を問わず、532年には臨賀郡王(りんがぐんおう)に封じたが、凶暴さは日ごとに増した。侯景(こうけい)は、本来皇太子となるべきだった大王が廃されたと持ち上げる書を送り、蕭正徳(しょうせいとく)は大いに喜んで応じた。548年、蕭正徳(しょうせいとく)は荻(おぎ)を迎えると偽って船を送り、侯景(こうけい)の軍を渡した。同じ年、侯景(こうけい)は蕭正徳(しょうせいとく)を帝に立て、蕭正徳(しょうせいとく)は正平(せいへい)と改元(かいげん)した。即位の場所を梁書(りょうしょ)の侯景(こうけい)伝は儀賢堂(ぎけんどう)とし、南史(なんし)の武帝(ぶてい)紀(き)は南闕(なんけつ)の前とする。

治世と最期

資治通鑑(しじつがん)によれば、即位の詔で侯景(こうけい)を丞相(じょうしょう)とし、子の蕭(しょう)見理(けんり)を皇太子に立て、侯景(こうけい)に娘を嫁がせて家財を軍費に差し出した。南史(なんし)によれば、台城(たいじょう)を落とせば武帝(ぶてい)と皇太子を生かしておかないと侯景(こうけい)と約したが、台城(たいじょう)が開くと門を固められて入れなかった。549年、侯景(こうけい)は年号を太清(たいせい)に戻し、蕭正徳(しょうせいとく)を侍中(じちゅう)・大司馬(しば)に降した。武帝(ぶてい)に拝謁して泣くと、武帝(ぶてい)は詩経(しきょう)の句を引いて、泣いても嘆いても及ばないと言った。梁書(りょうしょ)の本伝は、恨み言を漏らしたので侯景(こうけい)が変事を恐れて殺したとする。南史(なんし)の列伝(れつでん)と資治通鑑(しじつがん)は、侯景(こうけい)に売られたと悟って鄱陽王(はようおう)蕭(しょう)範に兵を入れるよう密書を送り、その書を押さえられて殺されたとする。同じ年に永福省(えいふくしょう)で殺され、資治通鑑(しじつがん)は絞め殺されたとする。梁書(りょうしょ)と南史(なんし)の本紀(ほんぎ)に、その死の記事は無い。

在位中の出来事(3件)

親征548年12月建康台城(自らの帝位簒奪のため侯景軍と合流・進軍)
被反乱549年4月〜549年7月侯景による正徳政権の廃位・粛清
改元日付不詳元号を「正平」とする

梁・南北朝の歴代皇帝

9名の一覧

即位経路が「推戴」の23名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。