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前廃帝の肖像

宋(そう)・南北朝(なんほくちょう)第5代分裂期の王朝

前廃帝(ぜんはいてい)劉子業(りゅうしぎょう)

在位 464年7月12日〜466年1月1日(1年173日)

姓劉(りゅう)諱子業(しぎょう)幼名法師(ほうし)

前廃帝の人物データ

生年
449年2月25日
在位
  • 464年7月12日〜466年1月1日
在位 1年173日長さは365名中274位
没年
466年1月1日17歳(数え年)267名中長寿順247位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
世襲
先代
  • 孝武帝宋・南北朝前廃帝は孝武帝の子
次代
  • 明帝宋・南北朝明帝は前廃帝の叔父

出典(死因・即位経路)

死因
宋書/卷07 本紀第七 前廢帝
即位経路
宋書/卷07 本紀第七 前廢帝

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

劉子業(りゅうしぎょう)は劉宋(りゅうそう)の孝武帝(こうぶてい)の長子で、464年、父が崩じたその日に位に即いた。宰輔(さいほ)を自ら誅(ちゅう)してからは殺戮(さつりく)と辱めを重ね、叔父の湘東王(しょうとうおう)劉(りゅう)彧(いく)の側近と結んだ寿寂之(じゃくし)らに殺された。

即位まで

劉子業(りゅうしぎょう)は449年に生まれ、453年に父が元凶の劉劭(りゅうしょう)の討伐に起ったときには、都で囚われて何度も殺されかけた。孝武帝(こうぶてい)の践祚(せんそ)で皇太子に立てられたが、幼くして狷急(けんきゅう)で、父から手紙で怠惰と強情を叱(しか)られた。464年、孝武帝(こうぶてい)が崩じた日に即位して大赦したが、璽綬(じじゅ)を受けるときにも哀しむ様子がなかった。病の重い皇太后に呼ばれても、病人のそばは鬼が多いと言って行かなかった。

治世と最期

465年、劉子業(りゅうしぎょう)は戴法興(ほうこう)に死を賜り、さらに自ら宿衛兵(しゅくえいへい)を率いて江夏王(こうかおう)劉(りゅう)義恭(ぎきょう)や柳元景(げんけい)、顔師伯(しはく)らを誅(ちゅう)して、景和(けいわ)と改元(かいげん)した。同じ年、新安(しんあん)王劉(りゅう)子鸞(しらん)に死を賜り、討たれそうになった義陽王(ぎようおう)劉(りゅう)昶(ちょう)は北魏(ほくぎ)へ奔った。宮人(きゅうじん)の謝貴嬪(しゃきひん)を夫人としたが、それは実は新蔡公主(しんさいこうしゅ)であり、南史(なんし)はこれを文帝(ぶんてい)の娘としている。路氏(ろし)を皇后に立てると、ほかの者の子を皇子として生まれたことにして大赦した。資治通鑑(しじつがん)によれば、叔父の湘東王(しょうとうおう)劉(りゅう)彧(いく)らを殿内に拘えて竹籠に入れて量り、劉(りゅう)彧(いく)を猪王(ちょおう)と呼んで辱めた。劉子業(りゅうしぎょう)が荊州(けいしゅう)や湘州(しょうしゅう)へ南巡(なんじゅん)するため先に叔父たちを誅(ちゅう)そうとしたので、劉(りゅう)彧(いく)と側近の阮(げん)佃夫(でんぷ)らは劉子業(りゅうしぎょう)の側近の寿寂之(じゃくし)ら11人と結んだ。ある夜、華林園(かりんえん)の竹堂(ちくどう)で鬼を射ていた劉子業(りゅうしぎょう)は、刀を懐にして入ってきた寿寂之(じゃくし)に追われて殺された。死んだ場所を南史(なんし)は華光殿(かこうでん)としている。太皇太后(たいこうたいごう)の令が劉子業(りゅうしぎょう)の暴虐を数え上げ、湘東王(しょうとうおう)劉(りゅう)彧(いく)が位を継いだ。

在位中の出来事(7件)

大赦464年7月12日世祖(孝武帝)崩御の当日に太子子業が即位し、大赦天下。
改元465年元号を「永光」とする
改元465年元号を「景和」とする
大赦465年
大赦465年皇子誕生を機に大赦天下、贓汚淫盗もことごとく原除。
立后465年路氏を皇后に立てる(立皇后路氏、四厢奏楽)。
被反乱466年1月1日景和の政変(湘東王一派による弑逆クーデター)

宋・南北朝の歴代皇帝

10名の一覧

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