
宋・南北朝第1代分裂期の王朝
武帝劉裕
在位 420年7月10日〜422年6月26日(1年351日)
武帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋書/卷03 本紀第三 武帝下
- 即位経路
- 宋書/卷03
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
貧しい家から軍功で身を起こし、桓玄を倒して東晋の実権を握り、南燕と後秦を滅ぼしたのち、晋から位を譲られて宋を建てた皇帝である。
即位まで
字を徳輿、小名を寄奴といい、漢の楚元王の後裔と称した。363年に生まれ、家は貧しかった。399年に孫恩の乱が起こると劉牢之の軍に加わり、長刀をふるって奮戦し、孫恩・盧循との戦いで功を重ねた。桓玄が帝位を奪うと、まもなく404年に何無忌らと京口で挙兵して盟主に推され、桓玄の軍を破って建康から追い、桓玄は再び敗れて江陵に退いたのち、西へ逃れる途中で斬られた。410年に南燕の広固を落として慕容超を捕らえ、留守を突いて建康に迫った盧循を退かせ、翌年に左里で破った。ともに挙兵した劉毅と諸葛長民を相次いで滅ぼした。417年には後秦を滅ぼして長安に入ったが、子の義真を残して引き揚げたのち、関中は赫連勃勃に奪われた。419年の安帝の死を宋書の武帝紀は天子が没したとだけ書き、資治通鑑は、讖のために劉裕が王韶之に安帝を縊り殺させたと書く。420年、恭帝は禅位の詔を自ら書き、武帝は南郊に壇を設けて即位し、永初と改元した。
治世と最期
退位した恭帝は零陵王に封じられ、421年に没した。宋書の武帝紀はその死に武帝が礼を尽くして哀悼したと書き、南史は同じ記事に宋の意向による死だったと書き添える。晋書の恭帝紀と資治通鑑は、兵が恭帝を殺したと書く。422年に病が重くなると、太子に謝晦を警戒するよう言い残し、のちに幼い君主が立っても母后の臨朝は要らないとの手詔を定めて、西殿で没した。
在位中の出来事(6件)
宋・南北朝の歴代皇帝
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