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武昭帝の肖像

後秦(こうしん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第1代分裂期の王朝

武昭帝(ぶしょうてい)姚萇(ようちょう)

在位 386年〜393年(6年263日)

姓姚(よう)諱萇(ちょう)字景茂(けいも)廟号太祖(たいそ)

武昭帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 386年〜393年
在位 6年263日長さは365名中163位
没年
393年64歳(数え年)267名中長寿順26位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代

出典(死因・即位経路)

死因
晉書/卷116 姚萇載記
即位経路
晉書/卷116 姚萇載記

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

前秦(ぜんしん)の苻堅(ふけん)に仕えた羌(きょう)の将で、淝水(ひすい)の戦いの後に自立して苻堅(ふけん)を殺し、後秦(こうしん)を建てた皇帝である。

即位まで

羌(きょう)の首長姚弋仲(ようよくちゅう)の第二十四子である。兄の姚(よう)襄(じょう)の死後、弟たちを率いて前秦(ぜんしん)に降り、苻堅(ふけん)のもとで将として功を重ねた。淝水(ひすい)の敗戦の後、討伐に出た苻(ふ)叡(えい)が戦死し、詫(わ)びの使者を苻堅(ふけん)に殺されると渭北(いほく)へ逃れ、384年に推されて万年秦王(ばんねんしんおう)を称した。385年、五将山(ごしょうざん)に逃れた苻堅(ふけん)を部将の呉忠が捕らえて送ってきた。苻堅(ふけん)載記(さいき)によれば、姚萇(ようちょう)は伝国(でんこく)の璽と禅譲(ぜんじょう)を求めたが、苻堅(ふけん)は五胡(ごこ)の順に羌(きょう)の名は無いと罵って拒み、新平(しんぺい)の仏寺で縊(くび)り殺された。姚萇(ようちょう)の載記(さいき)は苻堅(ふけん)を殺したことを書かず、資治通鑑(しじつがん)は、姚萇(ようちょう)が名を隠そうとして苻堅(ふけん)に壮烈天王と諡(おくりな)したことを加える。386年に長安(ちょうあん)で皇帝の位に就き、国号を大秦(だいしん)とした。

治世と最期

苻堅(ふけん)の屍(しかばね)を掘り出して何度も鞭打(むちう)ち、荊を敷いて埋めた。苻登(ふとう)とは長く戦ってしばしば敗れ、苻堅(ふけん)の神像を軍中に立てて罪は兄の襄(じょう)にあると祈ったが、戦況は変わらず、像の首を斬って苻登(ふとう)に送った。魏褐飛(ぎかつひ)(資治通鑑(しじつがん)は魏(ぎ)掲飛(けいひ))・雷悪地(らいあくち)の反乱では、二千に満たない兵で数万を破った。晋書(しんじょ)の載記(さいき)によれば、病が重くなると、苻堅(ふけん)が鬼の兵を率いて襲う夢を見てうなされ、陛下を殺したのは兄の襄(じょう)で臣の罪ではないと口走った。資治通鑑(しじつがん)はこの夢の話を載せない。長安(ちょうあん)で太子の姚興(ようこう)に後事を託して393年に没し、晋書(しんじょ)の本紀(ほんぎ)はこれをその年の冬の初めの条に、資治通鑑(しじつがん)と十六国春秋(じゅうろっこくしゅんじゅう)は年の暮れの条に置く。

在位中の出来事(11件)

改元386年元号を「建初」とする
大赦386年
立后386年
親征386年〜393年苻登(前秦後継政権)
被反乱386年〜387年徐嵩・胡空の離反(苻登への帰順)
親征386年5月盧水胡郝奴・扶風王驎(関中割拠勢力)
親征390年魏掲飛・雷悪地
被反乱390年魏掲飛・雷悪地の反乱
被反乱390年郭質の反乱(馮翊・三輔の蜂起)
被反乱391年苟曜の反乱(苻登への内応)
残り1件を表示
被反乱392年関中巴蜀人の離反

後秦の歴代皇帝

3名の一覧

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