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後秦(こうしん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第3代分裂期の王朝

姚泓(ようこう)

在位 416年〜417年(1年1日)

姓姚(よう)諱泓(こう)字元子(げんし)

姚泓の人物データ

生年
不詳
在位
  • 416年〜417年
在位 1年1日長さは365名中289位タイ
没年
417年30歳(数え年)267名中長寿順187位タイ
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
世襲
先代
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
晉書/卷119 姚泓載記
即位経路
晉書/卷119 姚泓載記

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

姚泓(ようこう)は後秦(こうしん)の姚興(ようこう)の長子で、416年に父の死を受けて位に即いた。一族の反乱が続くなかで東晋(とうしん)の劉裕(りゅうゆう)の北伐(ほくばつ)を受け、417年に長安(ちょうあん)で降って後秦(こうしん)は滅び、建康(けんこう)の市で斬られた。

即位まで

姚泓(ようこう)は孝友寛和(こうゆうかんわ)だったが国を治める才に乏しく病が多かったため、姚興(ようこう)は後継とするのをためらったのち、太子に立てた。資治通鑑(しじつがん)によれば、姚興(ようこう)の危篤のとき姚(よう)愔(いん)が尹(いん)沖とともに端門(たんもん)を攻め、姚興(ようこう)は姚(よう)紹らに遺詔(いしょう)を授けて死んだ。魏書(ぎしょ)は端門(たんもん)を攻めたのを姚(よう)弼(ひつ)の党の姚(よう)武伯(ぶはく)らとしている。姚泓(ようこう)は喪を伏せたまま、乱を謀った姚(よう)愔(いん)や尹(いん)元らを誅(ちゅう)し、そのうえで喪を発して即位し、永和(えいわ)と改元(かいげん)した。

治世と最期

東晋(とうしん)の太尉(たいい)劉裕(りゅうゆう)が大軍で後秦(こうしん)を討ち、彭城(ほうじょう)に駐屯した。このころ姚(よう)懿(い)が司馬(しば)の孫暢(ちょう)に勧められて挙兵し号を称したが、姚(よう)紹が蒲坂(ほはん)に入って姚(よう)懿(い)を捕らえた。ついで姚(よう)恢(かい)が安定の鎮戸(ちんこ)を率いて長安(ちょうあん)へ迫ったが、姚(よう)紹と姚(よう)賛(さん)に挟み撃ちにされて弟たちとともに殺され、姚泓(ようこう)は声をあげて泣いて公の礼で葬った。417年、姚泓(ようこう)は自ら歩騎(ほき)数万を率いて青泥(せいでい)で沈田子(でんし)を襲ったが大敗し、灞上(はじょう)へ逃げ帰った。王鎮悪(ちんあく)が渭橋(いきょう)で姚(よう)丕(ひ)を破って長安(ちょうあん)に入ると、姚泓(ようこう)は数百騎で石橋(せっきょう)へ逃れた。十一歳の子の姚(よう)仏念(ぶつねん)は、降っても助からないと言って宮殿の壁から身を投げて死に、姚泓(ようこう)は妻子を連れて晋軍(しんぐん)の陣門に降った。長安(ちょうあん)が落ちた月を晋書(しんじょ)の安帝(あんてい)紀(き)は宋書(そうじょ)や資治通鑑(しじつがん)より一月早く置いている。劉裕(りゅうゆう)は降った宗室(そうしつ)の子弟百余人をすべて殺し、姚泓(ようこう)は建康(けんこう)へ送られて市で斬られた。

在位中の出来事(11件)

改元416年元号を「永和」とする
大赦416年
被反乱416年南陽公姚愔・大将軍尹元の政変未遂
被反乱416年羌酋党容の離反
被反乱416年北地太守毛雍の反乱
被反乱416年李閏の羌族諸集団の蜂起
被反乱416年并州・定陽・貳城胡(曹弘擁立)の反乱
被反乱416年〜417年平陽氐苟渴の蜂起
被反乱416年〜417年征東姚懿の反乱(長安襲撃計画・僭号)
被反乱417年征北姚恢の反乱
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親征417年9月劉裕(東晋北伐軍)

後秦の歴代皇帝

3名の一覧

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