後秦(五胡十六国)第3代分裂期の王朝
姚泓
在位 416年〜417年(1年1日)
姓姚諱泓字元子
姚泓の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書/卷119 姚泓載記
- 即位経路
- 晉書/卷119 姚泓載記
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
姚泓は後秦の姚興の長子で、416年に父の死を受けて位に即いた。一族の反乱が続くなかで東晋の劉裕の北伐を受け、417年に長安で降って後秦は滅び、建康の市で斬られた。
即位まで
姚泓は孝友寛和だったが国を治める才に乏しく病が多かったため、姚興は後継とするのをためらったのち、太子に立てた。資治通鑑によれば、姚興の危篤のとき姚愔が尹沖とともに端門を攻め、姚興は姚紹らに遺詔を授けて死んだ。魏書は端門を攻めたのを姚弼の党の姚武伯らとしている。姚泓は喪を伏せたまま、乱を謀った姚愔や尹元らを誅し、そのうえで喪を発して即位し、永和と改元した。
治世と最期
東晋の太尉劉裕が大軍で後秦を討ち、彭城に駐屯した。このころ姚懿が司馬の孫暢に勧められて挙兵し号を称したが、姚紹が蒲坂に入って姚懿を捕らえた。ついで姚恢が安定の鎮戸を率いて長安へ迫ったが、姚紹と姚賛に挟み撃ちにされて弟たちとともに殺され、姚泓は声をあげて泣いて公の礼で葬った。417年、姚泓は自ら歩騎数万を率いて青泥で沈田子を襲ったが大敗し、灞上へ逃げ帰った。王鎮悪が渭橋で姚丕を破って長安に入ると、姚泓は数百騎で石橋へ逃れた。十一歳の子の姚仏念は、降っても助からないと言って宮殿の壁から身を投げて死に、姚泓は妻子を連れて晋軍の陣門に降った。長安が落ちた月を晋書の安帝紀は宋書や資治通鑑より一月早く置いている。劉裕は降った宗室の子弟百余人をすべて殺し、姚泓は建康へ送られて市で斬られた。
在位中の出来事(11件)
改元416年元号を「永和」とする
大赦416年
被反乱416年南陽公姚愔・大将軍尹元の政変未遂
被反乱416年羌酋党容の離反
被反乱416年北地太守毛雍の反乱
被反乱416年李閏の羌族諸集団の蜂起
被反乱416年并州・定陽・貳城胡(曹弘擁立)の反乱
被反乱416年〜417年平陽氐苟渴の蜂起
被反乱416年〜417年征東姚懿の反乱(長安襲撃計画・僭号)
被反乱417年征北姚恢の反乱
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親征417年9月劉裕(東晋北伐軍)
後秦の歴代皇帝
3名の一覧- 第1代武昭帝386–393年病死
- 第2代文桓帝394–399年病死
- 第3代姚泓416–417年処刑