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劉武周の肖像

定楊(ていよう)(隋末(ずいまつ))第1代分裂期の王朝

劉(りゅう)武周(ぶしゅう)

在位 617年〜622年8月28日(5年240日)

姓劉(りゅう)諱武周(ぶしゅう)

劉武周の人物データ

生年
不詳
在位
  • 617年〜622年8月28日
在位 5年240日長さは365名中173位
没年
不詳
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
旧唐書 巻五十五(薛挙・李軌・劉武周列伝)/新唐書 劉武周伝
即位経路
旧唐書 巻五十五(薛挙・李軌・劉武周列伝)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

隋の末に馬邑で仲間と太守を斬って挙兵し、突厥の後ろ盾で帝を称したが、李世民に敗れて突厥へ逃げ、そこで殺された人物である。

即位まで

河間景城の人で、父が馬邑に移り住んだ。遼東遠征に応募して建節校尉となり、馬邑太守の王仁恭に厚遇されたが、その侍女と通じて発覚を恐れ、異心を抱いた。617年、劉武周の仲間の張万歳が郡庁で王仁恭を斬った。劉武周は倉を開いて窮民に施し、兵一万余を得た。太守を名乗って突厥に従い、突厥とともに隋軍を破って汾陽宮を取り、宮人を始畢可汗に贈った。同じ年、突厥から定楊可汗に立てられると、これに乗じて皇帝を称し、天興と建元した。

治世と最期

群盗の宋金剛が投じると宋王として軍事を任せ、晋陽を取って南へ天下を争うよう説かれた。619年、宋金剛が并州に攻め入って唐軍を破り、斉王元吉が城を棄てて逃げたため、劉武周が太原を手に入れた。苑君璋は南進に反対したが聞かず、のちに敗れてから、その言を用いなかったことを悔やんで泣いた。620年、李世民が雀鼠谷で一日に八度戦って宋金剛を破ると、劉武周は并州を棄てて突厥に逃げ込んだ。のちに馬邑へ帰ろうと謀って発覚し、突厥に殺された。その年を旧唐書の本紀は620年の条に置き、新唐書の本紀は622年とする。旧唐書の列伝は挙兵から死までを6年としており、こちらは622年の側に合う。資治通鑑は日付を付けずに、しばらくしてと書くだけである。

在位中の出来事(4件)

改元617年元号を「天興」とする
立后617年
親征617年陳孝意・王智辯(隋、桑乾鎮〜楼煩郡・汾陽宮・定襄)
親征620年李仲文(浩州)

即位経路が「自立」の48名をデータベースで見る

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