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梁(りょう)・梁師都(りょうしと)(隋末(ずいまつ))第1代分裂期の王朝

梁師都(りょうしと)

在位 617年4月〜628年6月3日(11年66日)

姓梁(りょう)諱師都(しと)

梁師都の人物データ

生年
不詳
在位
  • 617年4月〜628年6月3日
在位 11年66日長さは365名中121位
没年
628年6月3日
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
旧唐書 巻五十六(蕭銑・杜伏威等列伝)/新唐書 太宗本紀 貞観二年四月条
即位経路
旧唐書 巻五十六(蕭銑・杜伏威等列伝)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

隋末に朔方で挙兵して梁の皇帝を称し、突厥の後ろ盾で唐に抗い続けたが、唐軍に囲まれて従父弟に殺された人物である。

即位まで

夏州朔方の豪族の出で、隋に仕えて鷹揚郎将となった。大業の末に職を退いて帰郷し、盗賊の蜂起に乗じて数千人を集め、郡丞を殺して郡に拠った。資治通鑑はこれを617年とし、殺された郡丞の名を旧唐書は唐宗、資治通鑑と新唐書は唐世宗とする。雕陰・弘化・延安などを攻め取って帝を称し、国を梁、元号を永隆とした。資治通鑑はこの称帝も617年の条に記す。新唐書だけは、城南で天を祭り、玉を埋めた所を掘って印を得て、瑞祥としたと記す。突厥の始畢可汗は狼頭纛を贈って大度毗伽可汗と号させ、新唐書と資治通鑑によれば解事天子とも号させた。

治世と最期

突厥を河南の地に引き入れて塩川郡を破った。619年、突厥とともに延安へ攻め入ったが、唐の段徳操に敗れて大潰し、捕らえられた男女を旧唐書は二百余口、資治通鑑は二千余口とする。劉武周が敗れ、梁師都の大将の張挙・劉旻が相次いで唐に降ると、梁師都は恐れて突厥の処羅可汗に南侵を説かせたが、出兵の直前に処羅が死んで取りやめとなった。その後は自ら頡利可汗のもとへ出向いて入寇の計を説き、頡利が渭橋まで攻め寄せたのも梁師都の計だったと旧唐書は記す。628年、頡利可汗が梁師都と契丹の交換を求めても、太宗は応じなかった。同じ年、太宗は柴紹らに梁師都を討たせ、柴紹は救援の突厥を破って城下に迫った。朔方城中の食が尽きると、従父弟の梁洛仁が梁師都を斬って城ごと降った。旧唐書の李道宗伝は梁洛仁を弟と書き、梁師都伝の従父弟と食い違う。その地は唐の夏州とされた。

在位中の出来事(4件)

改元617年元号を「永隆」とする
親征617年塩川郡(隋領、対外拡張)
親征619年唐・延安(段徳操軍)
親征619年〜620年唐・延安方面(段徳操軍)

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