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秦(しん)・西秦(せいしん)(隋末(ずいまつ))第1代分裂期の王朝

薛挙(せつきょ)

在位 617年8月〜618年9月4日(1年34日)

姓薛(せつ)諱挙(きょ)諡号武皇帝(ぶこうてい)

薛挙の人物データ

生年
不詳
在位
  • 617年8月〜618年9月4日
在位 1年34日長さは365名中285位
没年
618年9月4日
死因
病死365名中167名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
  • 薛仁杲秦・西秦薛仁杲は薛挙の子
目立つ記録
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
旧唐書 巻五十五(薛挙・李軌・劉武周列伝)
即位経路
旧唐書 巻五十五(薛挙・李軌・劉武周列伝)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

薛挙(せつきょ)は隋末(ずいまつ)に金城で兵を挙げた群雄で、617年に西秦(せいしん)霸王(はおう)を称し、まもなく帝号(ていごう)を名乗って隴西(ろうせい)に拠った。618年に唐軍を高墌(こうせき)で大破したが、勝ちに乗じて長安(ちょうあん)を衝こうとした矢先に病んで死んだ。

即位まで

薛挙(せつきょ)は河東(かとう)汾陰(ふんいん)の人で、父の代に金城へ移り、家産巨万で辺境の豪傑と交わり、金城府(きんじょうふ)校尉(こうい)となった。隋末(ずいまつ)、金城(きんじょう)令の郝瑗(かくえん)が募兵して薛挙(せつきょ)に討伐を委ねると、薛挙(せつきょ)は子の薛仁杲(せつじんこう)らと酒宴の席で郝瑗(かくえん)を捕らえ、倉を開いた。西秦(せいしん)霸王(はおう)と称して秦興(しんこう)と建元(けんげん)し、子の薛仁杲(せつじんこう)と薛(せつ)仁越(じんえつ)を公に封じた。旧唐書(くとうじょ)の薛挙(せつきょ)伝は、617年に蘭州(らんしゅう)で帝号(ていごう)を僭(せん)し、妻の鞠氏(きくし)を皇后としたと記すが国号は書かず、資治通鑑(しじつがん)は秦帝(しんてい)を称したとする。帝を称した時期を隋書(ずいしょ)の恭帝(きょうてい)紀(き)は翌年の初めに置き、資治通鑑(しじつがん)考異(こうい)は実録(じつろく)の説を退けて薛挙(せつきょ)伝に従っている。

治世と最期

薛仁杲(せつじんこう)が秦州(しんしゅう)を攻め落とすと、薛挙(せつきょ)は蘭州(らんしゅう)から秦州(しんしゅう)へ都を移した。扶風(ふふう)で李(り)世民(せいみん)に敗れると、薛挙(せつきょ)は群臣に降った天子の先例を問うたが、郝瑗(かくえん)に諫(いさ)められて郝瑗(かくえん)を謀主(ぼうしゅ)とした。618年、李(り)世民(せいみん)が病んだ隙に、備えを怠った劉文静(りゅうぶんせい)らの唐軍を背後から突いて大破した。旧唐書(くとうじょ)はこの戦いを高墌(こうせき)の西南とし、資治通鑑(しじつがん)と新唐書(しんとうじょ)の劉弘(りゅうこう)基伝は浅水原(せんすいげん)の戦いとして記す。郝瑗(かくえん)の勧めで長安(ちょうあん)を取ろうとしたが、出発の直前に病み、旧唐書(くとうじょ)によれば巫が唐兵の祟(たた)りだと言うのを嫌ううちに死んだ。その日を旧唐書(くとうじょ)は新唐書(しんとうじょ)と資治通鑑(しじつがん)より一日遅く置く。旧唐書(くとうじょ)は捕虜の舌を断ち鼻を割く残虐を薛挙(せつきょ)の所業とし、新唐書(しんとうじょ)はこれを子の薛仁杲(せつじんこう)の所業とする。薛仁杲(せつじんこう)が衆を継いで武皇帝(ぶこうてい)と諡(おくりな)したが、葬らないうちに薛仁杲(せつじんこう)も滅んだ。

在位中の出来事(4件)

親征617年隋将・皇甫綰(枹罕方面の隋軍)
遷都617年蘭州 → 秦州
立后617年8月大業十三年(617年)七月、薛擧が蘭州で皇帝を僭称した際、妻の鞠氏を皇后に、母を皇太后に立てた。
親征618年唐(丰州総管張長逊・太宗配下の劉文静ら、高墌方面)

秦・西秦の歴代皇帝

2名の一覧

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