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秦(しん)・西秦(せいしん)(隋末(ずいまつ))第2代分裂期の王朝

薛仁杲(せつじんこう)

在位 618年9月4日〜618年11月30日(87日)

姓薛(せつ)諱仁杲(じんこう)

薛仁杲の人物データ

生年
不詳
在位
  • 618年9月4日〜618年11月30日
在位 87日長さは365名中340位タイ
没年
不詳
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
継承(経緯記載なし)
先代
  • 薛挙秦・西秦薛仁杲は薛挙の子
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
旧唐書 巻五十五(薛挙・仁杲伝)/新唐書 巻八十六
即位経路
旧唐書 巻五十五/新唐書 巻八十六

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

薛仁杲(せつじんこう)は隋末(ずいまつ)の群雄薛挙(せつきょ)の長子で、618年に父が死ぬと折墌城(せっしょくじょう)で衆を継いだ。同じ年、李(り)世民(せいみん)の軍に浅水原(せんすいげん)で敗れて降り、長安(ちょうあん)で斬られた。

即位まで

薛仁杲(せつじんこう)は力が強く騎射に長け、軍中で万人敵(ばんにんてき)と呼ばれた。隋末(ずいまつ)、父とともに金城(きんじょう)令の郝瑗(かくえん)を捕らえて挙兵し、斉公(せいこう)、のち斉王に封じられた。父が帝号(ていごう)を称したとき太子に立てられたと新唐書(しんとうじょ)と資治通鑑(しじつがん)は記すが、旧唐書(くとうじょ)の列伝(れつでん)にこの記事は無い。旧唐書(くとうじょ)は、降らない庾(ゆ)立を火の上で磔(はりつけ)にして肉を兵に食わせ、父に戒められたと薛仁杲(せつじんこう)の残虐を記す。618年に薛挙(せつきょ)が死ぬと、薛仁杲(せつじんこう)は折墌城(せっしょくじょう)で立ち、父に武皇帝(ぶこうてい)と諡(おくりな)した。薛挙(せつきょ)の死と嗣立(しりつ)の時期は、旧唐書(くとうじょ)の高祖本紀(こうそほんぎ)と資治通鑑(しじつがん)で一日違い、旧唐書(くとうじょ)の太宗本紀(たいそうほんぎ)はさらに遅く置く。

治世と最期

もとから諸将と仲が悪かったため、即位すると皆が疑い恐れ、謀主(ぼうしゅ)の郝瑗(かくえん)も病に臥(ふ)して兵勢は衰えた。李(り)世民(せいみん)は高墌(こうせき)で塁を固めて長く動かず、兵糧の尽きた薛仁杲(せつじんこう)の側からは内史令(ないしれい)の翟(てき)長孫(ちょうそん)らが唐に降った。李(り)世民(せいみん)は将軍の龐(ほう)玉に浅水原(せんすいげん)で宗羅睺(らこう)を撃たせ、自らも突いて大破し、勝ちに乗じて折墌城(せっしょくじょう)に迫ると、薛仁杲(せつじんこう)は門を開いて降った。旧唐書(くとうじょ)の列伝(れつでん)は長安(ちょうあん)に連れ帰って首帥(しゅすい)数十人とともに斬ったとし、資治通鑑(しじつがん)は長安(ちょうあん)の市で斬ったとする。旧唐書(くとうじょ)と新唐書(しんとうじょ)の本紀(ほんぎ)は降伏や献俘(けんぷ)までを記し、斬った記事は無い。資治通鑑(しじつがん)によれば、高祖(こうそ)が党を尽く誅(ちゅう)せと命じたのを李密(りみつ)が諫(いさ)め、謀首(ぼうしゅ)だけが殺された。名を資治通鑑(しじつがん)考異(こうい)は、昭陵(しょうりょう)の石馬の銘によって仁果(じんか)と書くのが確かだとしている。

秦・西秦の歴代皇帝

2名の一覧

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